第123話 バラッド詩と小説家たち 


オリヴァー・ゴールドスミス『エドウィンとアンジェリーナ』 (Oliver Goldsmith, “The Hermit, or Edwin and Angelina” , c. 1761)

 

 1991年度世界幻想文学大賞を受賞したエレン・カシュナーの『吟遊詩人トーマス』 (Ellen Kushner, Thomas the Rhymer, 1990; 井辻朱美訳、早川書房、1992年;cf. "Thomas Rymer", Child 37A;第13話参照)のように伝承バラッドを題材とした小説もあれば、小説家が自らの作品の展開の中で自作のバラッド詩を紹介したり、その詩を利用して独自の作品を書いた別の小説家もいる。

 ゴールドスミスの小説 『ウェイクフィールドの牧師』[The Vicar of Wakefield (written 1761-62, pub. 1766)]では、作中人物がうたう伝承バラッド[「ジョニー・アームストロングの最後の別れ」(‘Johnie Arm-strongs last Good-Night’, Child 169B)や「バーバラ・アレンの無情」(‘Barbara Allen’s Cruelty’, Child 84B)など] の他に、作者が創作して、登場人物に紹介させたものや、登場人物にうたわせたバラッド詩がある。
 第8章では、牧師の次女ソフィア(Sophia)に好意を寄せるバーチェル氏(Mr. Burchell)が、戸外での昼食のあとの団欒の場に訪ねてきた場面で、ソフィアが、互いの腕に抱かれたまま雷に打たれて死んだ二人の恋人のことを書いたゲイ(John Gay, 1688-1732)の描写にとても心を打たれるものがあると言い、それに対して弟のモーゼズ(Moses)が、オウィディウス(Publius Ovidius Naso, 43 B.C.- ? A.D. 17)のエーシス(Acis)とガラテア(Galatea)の描写には及ばない、ローマの詩人は対照法(‘the use of contrast’)をよく心得ており、人の心を動かす力はいかに巧みにその方法を駆使するかにかかっている、と述べる。二人のやりとりを聴いていたバーチェル氏は、次のように言って彼の詩に対する考え方を開陳する。

「お二人が挙げた詩人は、どちらも、一行一行に形容詞をつめこんだ結果、それぞれの祖国にいかがわしい趣味をひろめる役を果たす結果になった。才能の乏しい者たちは、とかくこの欠点ばかり真似たがりましたから、いまの英国の詩は、ローマ帝国の後期とおなじように筋も構想もなく、ただ派手な形容詞をならべるだけのものになってしまい、響きは美しいが中身はからっぽになりました。・・・じつを言うと私がこんな批判をしたのは、ここにおいでのみなさんに、或るバラッドをご紹介したかったからにすぎないのです。このバラッドにはいろいろ欠点もありましょうが、少なくとも、いま私が挙げた欠点はありません」(小野寺健訳、岩波文庫)

このようにして紹介された作品が『エドウィンとアンジェリーナ』である。夜の暗がりの中、道に迷った若者に出会った森の隠者が、優しく一夜の宿を提供する。

Derby
By William Derby

隠者は 小さな暖炉の火を起こし 
  物思わしげな客人を暖めた


貯えの野菜を惣菜(そうざい)
  さあ召し上がれ とにっこりうながし
昔話を話たくみに語って聞かせ
  秋の夜長をもてなした   (47-52)


しかし、どんな心のこもったもてなしも若者の愁いを慰めることはかなわず、悲しみに重く胸をふさがれた若者はやがて涙を流しはじめる。悲しみの原因をあれこれ推測しながら、もしそれが報われない恋の悲しみであれば、恋なんて近頃の女の弄ぶもの、さっさと追い払ってしまうがよい、と隠者が言う。ところが、話している内に、恋やつれした若者の顔が赤らんでくる。

恥じらいにみちた表情 波打つ胸が
  代わる代(が)わる 驚きの波紋をひろげるうちに
まぎれもなく 客人の正体は露(あらわ)れて
  そこに立っているのは 見るも美しい娘であった  (89-92)

娘は事情を打ち明ける。裕福な領主を父に持った娘のもとにはたくさんの求婚者がやってきた。中で、若いエドウィンも娘に心を寄せる一人だった。財産も権力も無くても純粋さだけで十分だったのに、「わたしはいつまでも浮気な手管で/うぬぼれて しつこく彼をからかい・・・/彼の情熱に心を動かされながら 苦しむ彼を見ては」(129-32) 勝ち誇っていた。娘の軽蔑に絶望し、驕る娘の元を去って、失恋の孤独の中でひっそりと死んでいった、と娘は語る。彼が横たわるところに自分も身を横たえて死ぬのだ、と娘は決意を語る。「ああ それはならぬ」 と隠者は叫んで、 彼女を強く抱きしめる。驚いた娘が振り向くと、抱きしめたのはエドウィンその人だった。

「・・・あなたをしっかりと胸に抱き寄せ
  悲しみは もうすべて忘れよう
二人は 二度と決して別れることはないのです
  あなたはわたしの命 わたしだけのもの」  (153-56)

 華美なイメージ、形容辞を排して豊かなプロットを展開して当時絶賛を博したこの作品には、実は元歌があった。パースィのReliquesに収められた‘Gentle Herdsman, Tell to Me’ (Vol. II, Bk. 1, XIV )である。男の身なりをしているが実は女で、かつてつれなくした恋人への罪を詫びて巡礼しているという事情を明かすところまでは、ゴールドスミスがそっくり取り入れている。 違うのは、それぞれの歌の結末である。元歌では、すべての話を聞いて最後に羊飼いは、「それでは気をつけて行かれるがよい、ごきげんよう」と言って別れる。一方、ゴールドスミスの方では、女の身の上話を聴いていた森の隠者こそ、何を隠そう、かつて女につれなくされてこの世を捨てた、そしてもうてっきり死んだものと思われていた、恋人エドウィンその人だったということになる。多言を要すまい。これは余りにも劇的な再会のドラマである。
 この種のメロドラマは、バラッド詩黎明期の流行りであり、作者独自のものとは言えないが、このバラッドがゴールドスミスの作品であるように、バーチェル氏が述べた英詩に対する批判が作者自身のものである点は看過できない。ワーズワースが、英詩の見直しを求めてバラッドの言葉の簡潔さを高く評価し、パースィのReliquesに負うところ大であると表明した時よりも既に40年近く前に、小説家ゴールドスミスが同じことを感じていたのである。
 この小説にはもう一つの有名なバラッド詩がある。第17章で、牧師の末の息子ビル (Bill)が家族の前でうたった『狂犬の死に寄せる哀歌』 (“An Elegy on the Death of a Mad Dog”)である。信心深くて、誰に対しても優しく親切な男が、初め仲の良かった犬に噛まれる。近所の衆は、その犬は狂犬だと罵り、男はきっと死んでしまう、と悲しむ。

ところがやがて 奇跡が起こり
  町の下衆(もの)が言ったことは 嘘八百という始末
その男の噛まれた傷は 回復し
  死んだのは 犬の方だったのです  (29-32)

というオチである。1760年の夏ロンドンが野犬の恐怖に襲われたことがあり、この歌はそれにヒントをえたもの、しかし表題の「哀歌」は、当時の感傷に満ちた哀歌調の詩に対する鋭い諷刺になっている。ビルがこの歌を家族の前でうたい終わると、皆んなはビルのうまさをほめ称える。牧師は「私は現代のお上品な詩や、一節読むだけでこっちが化石になってしまいそうなものより、こういうがさつなバラッドのほうが好きだな。・・・ああいう哀歌の大きな欠点は、まともな人間なら痛いとも思わない痛みを、大仰にさわぎたてることだ。ご婦人が誰か、マフとか扇子、あるいはペットの犬を失くしたりすれば、詩人は家へ飛んで帰って、その事件を詩にするのさ」(小野寺健訳)



 センチメンタルなメロドラマに対するゴールドスミスのスタンスは明白であろう。二十世紀を代表する小説家の一人であり、巧みな物語作家であったモーム(William Somerset Maugham, 1874-1965)は、そのようなゴールドスミスのスタンスの良き理解者であった。短編小説の名手が手掛けた数多くの作品のひとつにThe Happy Coupleがある。今はもう60歳を過ぎたランドン(Landon)判事が休暇でイタリアに向かう途中、古くからの知り合いである「私」(語り手)のところに2、3日滞在することになる。「私」には数マイル離れたところに住むミス・グレイ(Miss Gray)という友達があり、ランドン判事の到着の夜、グレイを招いて一緒に食事をする。翌日は「私」とランドン判事がグレイの家に招かれる。その昼食にグレイは、隣に住むクレイグ(Craig)夫妻を招くことにする。最近引っ越してきた夫婦で、夫の方は、赤ら顔でふさふさとした白髪の、なかなか美貌の初老風である。妻の方は背が高く、いくぶん男性的な硬い感じの顔付きで、鼻も大きく、日焼けした膚、陰気な雰囲気の四十女に見える。二人にはまだ1歳の誕生日を迎えていないような赤ん坊があり、いかにも仲睦まじく腕を組んでよく庭を散歩したりする。そのような時二人はひと言も言葉を交わさないのだが、それは、一緒にいるだけでこの上もなく幸せで、会話を必要としないのだ、という風にグレイには見えるのだった。この夫婦の様子を聞かされた「私」は、「完全な幸せ」(‘complete happiness’) なんてこの世にめったにあるものではないが、その二人にはいかにもそれがあって幸せそうで、結婚していないグレイにはとても羨ましく映るのだろう、と思う。あまり近所付き合いを好まない風で、実は今までグレイは、道端ですれ違ったりすることはあっても二人と一度も口をきいたことがない。だから、彼らのファーストネームも知らず、空想の中で二人を「エドウィン」と「アンジェリーナ」と呼ぶことにする。二人は遠い昔、恐らく二十年前に恋に落ちた。アンジェリーナがまだ十代のうら若き乙女で、エドウィンは逞しい若者であった。しかし二人には結婚する金は無く、エドウィンは南アメリカかどこかに出稼ぎにゆく。2、3年もすれば戻ってくるという約束であった。しかし、約束の時が経っても、エドウィンはアンジェリーナと結婚するだけのお金を稼ぐことが出来ない。5年が経ち、10年が経ち、ついに20年が経って、ようやくエドウィンは念願の帰国を果たすことになる。エドウィンは昔と変わらず若々しく、様々な国々を見聞して広々とした視野を身につけているのに対して、アンジェリーナは田舎に閉じこもっていた自分の狭量が恥じらわれ、もはや彼には似つかわしくないと思い、別れようとする。ところが、ショックで顔青ざめたエドウィンが「もう僕のことを愛していないのか」と声を絞り出した時、アンジェリーナは、彼にとって自分は昔のままの18の乙女だったのだと知り、かくして二人は結ばれたと、これがグレイの想像するところであった。
 招かれた時間に少し遅れてやって来たクレイグ夫妻を見た瞬間、ランドン判事は、はっと気付くものがあった。 夫妻の方も一瞬たじろぎをみせるが、あとはどちらの側も何も言わず、食事と当たり障りのない会話が進む。しかし、途中で夫の方が急に気を失って倒れる。まもなく意識は戻って、夫妻はそそくさと帰ってゆく。あとで、クレイグ夫妻に対するグレイの「エドウィンとアンジェリ−ナ」の物語を「私」がランドンに語って聴かせると、無表情に聴いていた彼は、「お気の毒に、ミス・グレイはセンチメンタルでおめでたいお方だ (“I’m afraid your friend Miss Gray is a sentimental donkey, my dear fellow.”) と言う。翌日の昼、グレイから電話がかかり、クレイグ夫妻が昨晩の内に姿を消したという。後は、ランドン判事が「私」に語った「ウィングフォード殺人事件」の話である。ミス・ウィングフォード (Miss Wingford)は裕福な独身の老婦人で、ミス・スターリング(Miss Starling)という女性と一緒に暮らしていた。とても健康だったのに、或る日突然死ぬ。遺産のすべて(6~7万ポンド)は遺言によってスターリングの手に渡る。30年間仕えていた女中が、自分も遺産をもらえる約束だったと騒ぎ出し、ウィングフォードさんは毒殺されたと言いふらす。ホームドクターのブランドン(Dr. Brandon)は、ウィングフォードさんはかねて心臓が弱く、長年治療を続けてきており、死因に不信な点はなかった、と言う。しかし、あまりにも女中が騒ぎたてるので、ついに警察が動き、墓を暴いて検屍が行われた結果、バルビタール催眠剤の過量投与による死であることが判明する。ウィングフォードさんは夜寝る前にココアを飲む習慣で、それをいつも準備するのがスターリングの役目であったことから、彼女は逮捕される。更に、スターリングとドクター・ブランドンが親密な関係にあったという噂がもっぱらで、結局二人は共謀してウィングフォードさんを殺害したとして裁判になる。しかし二人は、友達以上の関係にはなかったと反論、医学検証の結果、スターリングは‘virgo intacta’(法律用語で、「完全な処女」の意味)であった。ドクター・ランドンは、不眠を訴えるウィングフォードさんにバルビタールは与えたが、一錠以上決して服用しないように注意していたこと、従って、偶然の事故か、または自殺ではないかと弁護。自殺の要素はまったく考えられず、ランドン判事は殺害を確信したが、陪審員の判決は「無罪」となる。次の引用文はこの物語の最後のくだりである。

 「陪審員が二人を無罪としたのは何故なのでしょうか?」
 「私もそのことを自問した。説明できる唯一の理由があるとしたら、実は二人が肉体関係になかったということだ。それは実に不可解であると言わざるを得ない。女は、愛する男を手に入れるためには殺人を犯すことも厭わなかった、しかし、婚前情事をする勇気は無かったということだ」
 「人間 (human nature)とは奇妙なものだな」
 「いや まったく」と言って、ランドンは自分でブランデーをもう一杯注いだ。
 
愛する男のために殺人を犯す用意はあっても、不義の情事を交わす用意はなかった、というところに人間というものの不思議さを感じるかどうかは別として、かつてのドクター・ブランドンとスターリングこそ今のクレイグ夫妻、グレイが空想した ‘Edwin’と’Angelina’の真の姿であったという、モームの見事な物語である。

 
ひとくちアカデミック情報: William Derby: 1786–1847. バーミンガムに生まれ、風景画家であったJoseph Barber (1757-1811)に学ぶ。1808年にロンドンに出て、肖像画や細密画の模写に手腕を発揮した。1838年に脳性麻痺になり、一時は言語機能を失い、半身不随になったが、数ヶ月後には奇跡的に回復し、息子のAlfred Thomas Derby (1821–73)の補助を得ながら制作活動を続けて、多くの作品を残している。優しく、優美に描かれた二人の人物が、セピア色の隠者の洞窟から光り輝くように浮かび上がってくるこの水彩画は、画家の見事な技量の証である、と評されている。なお、この“The Hermit, or Edwin and Angelina”のテーマは、John Martin (1789-1854), Walter Stephens Lethbridge (1772-1831), Robert Pollard (1755–1838) , Charles Taylor (1841-83)など、多くの画家に人気の題材となった。(Gallery 7 Miscellany 参照) 

 
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コメント   

0 # Guest 2022年05月19日 17:30
ゴールドスミスのバラッド、最終講義が思い出されます。
画家の紹介、いいですね!
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