第106話 天国と地獄の間(あわい)
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ『 ヘレン姉さん』 
(Dante Gabriel Rossetti, “Sister Helen”, ?1853-80)

前回のテニスンを筆頭に、ルイス・キャロル (Lewis Carroll, 1832-98)、メレディス (George Meredith, 1828-1909)、スウィンバーン (A. C. Swinburne, 1837-1909) ら19世記を代表する詩人たちは、いずれ劣らぬ物語詩の名手であった。中でも今回取り上げるダンテ・ゲイブリエル・ロセッティは「ラファエル前派」と呼ばれた美術運動の中心的な存在であったと同時に、詩人としてもグループのリーダー的存在であった。テニスンと同じく、パースィの Reliques of Ancient English Poetry (1765) を熟知していたロセッティは、伝承バラッドの技法を巧みに取り込みつつ、自らの作品の主題を見事に展開して見せる。

『ヘレン姉さん』は、冒頭次のように始まる。
“Why did you melt your waxen man,
                                           Sister Helen?
To-day is the third since you began.”
“The time was long, yet the time ran,
                                           Little brother
                                  (O Mother, Mary Mother,
Three days to-day, between Hell and Heaven!)

「なぜ 蝋人形を溶かしたの
                                           ヘレン姉さん
今日で 手掛けてまだ三日目なのに」
「長かった でももうお仕舞よ
                                           弟よ」
                        (ああ 聖母 母なるマリア
今日で三日 天国と地獄の間(あわい)で!)

最初から最後まで「ヘレン姉さん」と呼びかける弟と、「弟よ」と応える姉の対話のみで話が進んでゆく。言うまでもなく、伝承バラッド『エドワード』(第16話参照)のパターンを踏襲しているのである。血の滴るその刀はどうしたのかと尋ねる母親に対して、息子エドワードがなかなか真相を打ち明けないまま対話が延ばされてゆく点もロセッティに踏襲されている。姉が蝋人形を溶かしているのは、自分を裏切った恋人を呪い殺そうとしているのである。このモチーフも、『バーバラ・アラン』(第23話参照)その他多くのバラッドに見られる「愛と呪い」のモチーフである。

Lizzie

(“Sister Helen”, pencil, black chalk and brown ink drawing by “Lizzie” Siddal)

各スタンザ2行目と5行目に配置された「ヘレン姉さん」「弟よ」という変化しないリフレインだけでこの300行近い話が進んでゆけば、さすがにその短調さに退屈するはずである。しかし、このポピュラーなモチーフに最後まで耳傾けさせるのは、ロセッティが仕組んだもう一つの、複雑に入り組んだ「変化するリフレイン」である。各スタンザ最後の二行に配されている‘O Mother, Mary Mother, /…………/, between Hell and Heaven’ (ああ 聖母 母なるマリア/ ・・・/天国と地獄の間(あわい)で)と、変化しない二種類の言葉に挟まれて「変化する」言葉が暗示的に連なってゆく。この二行を一応「語り手」のセリフと捉えて、「今日で三日」(7)、「今宵は三日目の夜」(14)と客観的な状況が述べられた後に早くも「死んだ人間(もの)とは一体」(28) 何なのかという核心的な問いが発せられる。姉弟の停滞した問答はやがて、聞こえてくる馬の足音から話が進む。三人の男が駆けてくる。「時が来た ついに来たのよ/弟よ」(74-75)という姉は(伝承バラッドの例からも)結婚に反対した家族への復讐の時が来た、と言っているようである。「ユアーンのキースが死にそうだとさ」(87)という弟のセリフからは、今、姉が呪い殺そうとしている恋人が死にかけているということが判明する。「彼とあなた あなたとわたし」(“And he and thou, and thou and I”, 88)という暗示的な表現は、家族の一員としての「彼」に対する、「恋人」としての「あなた」と姉は言いたい、だから「彼らとわたしたち」(“And they and we”, 91)という表現で、家族のしがらみの中にあった「彼」に対して、絶対的関係であったはずの「わたしたち」とコメントさせているのではないか。「愛から生まれた憎しみは 愛とおなじ盲(めしい)」(165)だと姉は言い、「憎しみに変わった愛」(168)と語り手はコメントする。最後に彼の父親がやって来て、息子が泣きながら「もし赦してくれるなら・・・/肉体(からだ)は死んでも魂は生きる」(183-85)と言っていると訴えると、彼女は「わたしが赦せば わたしの火も赦されましょう」(186)と応える。「そして彼女は赦すのだ」(189)と語り手は言う。しかし、「赦す」とは呪いを止めるということを意味しない。何故ならば、それこそが憎しみに変わった「愛」そのものであるからである。彼の結婚相手である花嫁の懇願も一蹴したヘレンは、「私の勝利と彼女の絶望を祝福する瞬間(とき)が来た」(214)と言い、最後は、彼の弔いの鐘を聞いて、彼女の「裸になった魂(“the naked soul”, 263)も後を追って消えてゆく。「ああ 聖母 母なるマリア/亡くなった 亡くなった すべてが無くなった 天国と地獄の間(あわい)で!」(293-94)という語り手の言葉で締め括られる「孤独なる霊魂(いのち)」(“The lonely ghost”, 273)のドラマであった。

ここで使われた‘ghost’とは、OEDにおける第一義 “The soul or spirit, as the principle of life”、すなわち、生命の根本原理としての霊魂を指し、命が究極的に絶対的孤独の中にしか存在しないと詩人は実感していたのではないか。美術モデルであり、詩人・芸術家であった妻エリザベス・シダル(Elizabeth Eleanor Siddal, commonly known as “Lizzie”, 1829-62)にとってはロセッティの詩は彼女自身の創作の源泉であったが、その彼女が自殺死した時、ロセッティはこの詩を一緒に埋葬したこと、その後(1869年)、墓から原稿を取り出して度重なる推敲を重ねるという異様な執着を示したこと、その間の、友人モリス(William Morris, 1834-96)と彼の妻ジェイン(Jane )との微妙な三角関係、度重なる精神的な破滅の危機等々、ロセッティが身を以て辿った生き様こそ、実に「天国と地獄の間(あわい)」のドラマだったのではないか。

ひとくちアカデミック情報
ラファエル前派: Pre-Raphaelite Brotherhood.  ラファエル(Raffaello Santi, 1483-1520)はイタリア・ルネサンスを代表する画家、建築家であったが、その後のアカデミズムにおいて規範とされた存在である。「ラファエロ以前」という言葉には、19世紀のアカデミーにおける古典偏重の美術教育に異を唱え、ラファエロ以前の芸術、すなわち中世や初期ルネサンスの芸術を範とすべしという意味が込められていた。主題として中世の伝説や文学、さらに同時代の文学にも取材している点は、彼らグループの詩人たちがこぞって伝承バラッドに目を向けたこととも通底していよう。
 また、完璧なるモデルとしてのラファエルを否定する裏には、神が定めた「存在の鎖」(“The Chain of Being”)という、ルネッサンス期の階層的宇宙観の中での中間的存在としての人間の位置付けの問題があったのではないか。現実の人間は中間的存在であるが故に不安定で、上昇と下降の両方の可能性を持った存在であるとロセッティは言いたかった、「天国と地獄の間(あわい)」に込められた意味はそのことではなかったかと思われる。Cf. A. O. Lovejoy, The Great Chain of Being: A Study of the History of an Idea (1936). E. M. W. Tillyard, The Elizabethan World Picture: A Study of the Idea of Order in the Age of Shakespeare, Donne and Milton (1942).
 因みに、決まりきったやり方で身につけた型を拒絶すること、自然を注意深く観察することなどの理念は、日本における版画家であり洋画家であった山本 鼎(1882-1946)の「自由画教育」を想起させる。