第101話 沈黙の海
S・T・コールリッジ『老水夫の物語』(Samuel Taylor Coleridge, "The Rime of the Ancient Mariner", 1798)

 全7部、625行にわたる長い作品の冒頭、詩人はこの物語の梗概を次のように述べている:
 「一隻の船が赤道を越え、嵐に流されて、酷寒の地、南極に向かった物語。そこから針路を変えて太平洋の灼熱の海へ。途中で降り掛かった不思議な事ども。その後、いかにして老水夫が祖国にたどり着いたかの物語。」

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Illustrated by Mervyn L. Peake


 以下はまず、この7部全体の概要を筆者の視点でまとめておこう:
(第I部) 一人の痩せこけた老水夫が婚礼の客人をいきなり引き止めて、自分の不思議な体験を語り始める。北国の港を出た船は、嵐の中を南に向かい、やがて氷の海へと入って行く。仲良く船に随行していたアホウドリを自分が石弓で射落したと語る。
(第II部) その後、船は沈黙の海に入り込み、そこで立ち往生する。海水は腐り、魔女の油のように燃えている。撃ち落としたあのアホウドリが呪いとして自分の首に掛けられる。
(第III部) 時は過ぎゆき、やがて幽霊船が近づいてくる。乗組員は「死神」とその連れの女「夢魔」。サイコロ勝負で女が勝って、自分だけが「死中の生」の定めを受ける。
(第IV部) 月光に照らされた海水が真っ赤に燃え、海蛇の群れが現れる。とぐろを巻いては体をのばして泳ぐ海蛇たちの美しさを思わず祝福したその瞬間に、アホウドリは自分の首からはずれて、海中に沈んでいった。
(第V部) やがて雨が降り始め、船はふたたび動き出し、稲光と月光の下、死んだ者たちが呻き、うごめき、一斉に立ち上がって、みんな元の持ち場に戻ってゆく。突然飛び跳ねたように動いた船に、自分は気を失って倒れる。 
(第VI部) やがて目が覚めると、船は飛ぶように進んでおり、見えてきたのは、見慣れた故郷の風景。船はゆっくりと湾内に入って行く。水先案内人とその息子、それともう一人、森の隠者が乗った小舟が現れる。
(第VII部) ついに、故郷の固い大地に降り立つ。隠者に促されて、赦しを乞い、罪の告白を始める。その時以来、自分には不思議な話す力が備わって、相手の顔を見た瞬間に、自分の話を聞くべき者かどうかがわかるのである。最後に婚礼の客人に、「よく祈る者こそよく愛する者」であると教える。 

 ロマン派を代表する詩であると同時にバラッド詩の中でも最高傑作と言っても過言でないこの作品は、素朴なバラッドとしての読みから(詩人が哲学者でもあったことを反映した)深い思索まで、様々な読みが可能である。まず、これがバラッド詩である基本的な条件として、全編バラッド・スタンザ(第10話「ひとくちアカデミック情報」参照)で構成されていることが挙げられる。更に、3、7、9など、バラッドの物語技法の一つとして頻出する神秘的・呪術的雰囲気作りに欠かせない'mystic number'(第43話「ひとくちアカデミック情報」参照)と呼ばれるものが各所に散りばめられている。更に大きな視点で見れば、海上という自然を大舞台に、出来事の全体が「太陽」と「月」の運行の枠組みの中で展開しているという構成は、伝承バラッドにおいて、人間が引き起こす事件を美しい自然のリフレインで包み込む技法に似ているとも言えよう。["Lady Isabel and the Elf-Knight" (Child 4A)で、美しい娘イザベルが窓辺で縫い物をしているところに妖精の騎士が現れて、娘は騎士に誘われて森に行く。危うく殺されかけるところを、娘は言葉巧みに騎士を誘い、膝枕に眠らせて、その隙に騎士の短剣を奪って彼を殺してしまうという話であるが、全13スタンザに「ひな菊がきれいに咲くとき/五月の最初の朝」というリフレインが挿入されて、悲劇性を緩和し、最終的には物語全体を美しい自然描写で包み込むという、バラッド独特の「抒情性」を生み出しているのである。]

 物語は、バラッド的な語りの特徴である唐突な始まり方をする。 
  「それは一人の老水夫であった
 この男が 三人のうちの一人を引き止める」(1-2)
そして、若き日の不思議な航海の体験を語り始めるのである。出航した船が「教会の下を 丘の下を/灯台の下をくだっていった」(22-23)と語る「教会」を'kirk'というスコットランド語を使って、船がスコットランドから南下して行ったことを伝える(これも、バラッド的な雰囲気を醸し出すための詩人のスパイスであろう)。「陽(ひ)は左手に昇った/海から姿を現したのだ/そうして明るく輝いて 右手の/海中へと姿を消した」(25-28)と、北から南に下ってゆくという船の運行を素朴な位置天文学で事実として表現している。第II部で、今度は船が向きを変えて北上するとき、語り手は「陽(ひ)は今や右手に昇った/海中から姿を現し/深い霧の中を 左手/海中に沈んでいった」(83-86)と言う。「太陽」('The Sun')という言葉は12回使われているが、それは徐々に、単なる天体を指す意味から、人間が犯した罪を厳しく罰する「神」のように読めてくるのである。
 事件は、語り手の水夫が意味もなく「キリストの魂」(65)のようなアホウドリを石弓で射落としたことから始まり、「神様の頭(こうべ)のような荘厳な陽(ひ)」(97-98)が昇って、やがて船は「沈黙の海」('silent sea' 110)に入ってゆく。そこでは、海水は腐り、「魔女の油のように」(129)燃えて、乗組員たちの舌は渇き、口もきけなくなる。すべてはあの鳥を殺した所為だと、皆の憎しみの目が向けられて、「十字架の代わりにアルバトロス」(141)が彼の首に掛けられる。やがて近づいてきた幽霊船に乗っていた二人の乗組員「死神」とその連れの女の夢魔「死中の生」がサイコロ勝負で老水夫の命を賭ける。女が勝って、死したる状態にあって死ぬことを許されない「生」を生きるという神罰を受けることになる。「広い広い海原に たった一人きり」(233)で苦しむ魂、孤独の中に「苦しむ魂」('soul in agony')こそ、ロマン派の作品群の象徴的なキーワードとなってゆくのである。

 死にたいと思っても死ねない苦しみの中に時は過ぎゆく。やがて、月が中空にかかり、海面を白く照らすと、船の大きな影が落ちているところが魔法にかかったように静かに、真っ赤に燃えてくる。すると、船影の先に海蛇の群れが見え、「キラキラと白波の筋を引いて泳ぎ/躰(からだ)をもたげると 小さな妖精の群れのような光が/ 白い飛沫(しぶき)となって」(274-76)ぱらぱらと散る。海蛇が船影の中に入ってくると、その碧(あお)や艶やかな翠(みどり)やビロードのような漆黒の衣装に水夫は見惚れてしまう。とぐろを巻いては体をのばして泳ぎ、通った跡に黄金の炎がきらめく海蛇の美しさを演出しているのは月光である。その瞬間、「愛の泉」(284)が胸からほとばしり、「幸福な生き物たちよ」(282)と思わず海蛇たちを祝福した水夫の首からアルバトロスがはずれ、海中に沈んでいった。
 「月」は都合14回登場するが、厳しく天罰を下す神(太陽)に対する聖母マリアの務めを果たすかのようである。罪を解かれた語り手が落ちてゆく穏やかな眠りを、「聖母マリア様に讃(たた)えあれ/マリア様が天から届けてくださった穏やかな眠りが/わしの魂の中に滑り込んだ」と彼は表現する。やがて雨が降り始めて、船がふたたび動き出し、稲光と月光の下、死んだ者たちが蘇ってくる。彼らの口から溢れ出る美しい調べを、「あるは 空から急降下する/ヒバリの歌声に聞こえ/あるは まるでこの世のすべての小鳥たちが/美しいさえずりで/海と空をいっぱいにしているようだった」 (363-66)と表現しているが、それはまるで、20世紀中葉のこの地球の有り様への詩人の、夢の中での再生の予言のように響いてくる。アメリカの生物学者レイチェル・カーソンが、農薬汚染の所為で春の小鳥が鳴かなくなったと警告した『沈黙の春』(Silent Spring)は1962年、化学物質による海水汚染を告発した石牟礼道子の『苦界浄土 わが水俣病』の出版は1969年であったが、彼らが暴いた地球の姿は、まるで老水夫の船が入り込んだ「沈黙の海」の20世紀版ではないか。フランス革命に共鳴し、アメリカ大陸に理想の平等社会「パンティソクラシー」を建設しようとして挫折した詩人が、人間の不条理な現実の中で、泡沫(うたかた)の夢に聞いたヒバリの歌声であったように思えてくる。
 故郷に戻った老水夫は、以後、国中を回って、自分の体験を語り伝える。「よく祈る者こそ よく愛する者・・・/人でも 鳥でも 獣(けもの)でも」という言葉は、一見、教訓めいて聞こえるかも知れない。しかし、無垢なる鳥を愛せず、意味もなく殺してしまった船乗りが、降り注ぐ月光の中で一つの生き物の美しさに思わず気付かされたこと、それが聖母マリアの愛の力によるものであったとするならば、それは決して浅薄な教訓などではない。己の行為の不条理性を告白し、すべての生き物を愛することによってのみ人間の再生があることを永遠に語り続ける老水夫の姿こそ、ロマンティシズムの真髄と言えようか。

ひとくちアカデミック情報
Mervyn L. Peake: イギリスのファンタジー作家、詩人、挿絵画家。1943年から48年の間に、コールリッジの『老水夫の物語』(8枚の白黒の挿絵)、グリム兄弟の『グリム童話』(1812-15)、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』(1865)や『スナーク狩り』(1874-76)、ロバート・ルイス・スティーヴンソンの『宝島』(1883)や『ジキル博士とハイド氏』(1886)などの挿絵を制作した。『ゴーメンガースト三部作』 (Titus Groan, 1946; Gormenghast, 1950; Titus Alone, 1959)というゴシック・ファンタジー小説で有名だが、数々のナンセンス詩や子供向けの物語も残している。第二次世界大戦で兵役についたときに神経を病み、病状が悪化する中で、シリーズの4冊目は未完のまま病没した。

パンティソクラシー:Pantisocracy. 1791年にケンブリッジ大学に入学したコールリッジが、フランス革命に共鳴して、94年にロバート・サウジー(Robert Southey, 1774 – 1843)らとともにアメリカ合衆国北東部を流れるサスケハナ(ニューヨーク、ペンシルベニア、メリーランドの3州にまたがるSusquehanna River)の河畔に理想の平等社会を建設しようとした計画をいう。人間の所有欲を抑え、一日2、3時間の労働のほかは、自然の中で健全な生活を営むというものであったが、95年末の出航を前にして、資金不足から断念、その後、考え方の違いからサウジーとも物別れとなる。

 



コメント   

+1 # d-life 2020年08月17日 15:17
昔から馴染んでいる物語ですが、最近になって、ふと気付きました。
老人とはいえ、遠洋航海から帰ってくるほどの体力の持ち主なのですから、50代だと考えた方がいいのでは、と。
とすると、物語自体の印象がとても違ってくるように思いました。
「老人の繰り言」の体裁ではなく、「海から帰還した屈強の中年男性の、誰にも理解されない啓示」となりますね。

つい先日、川上隆也と松たか子の舞台をテレビでみたばかりですので、この老人の役を川上隆也が演じたらスリル感満点ではないかな、
と想像した次第です。
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