第131話 ‘Dramatic Monologue’
ーRobert Browningの ‘Porphyria’s Lover’ (1836) 


 中世の叙事詩やロマンス研究のパイオニアであったKer (William Paton, 1855-1923) は伝承バラッドについて、「それは単に出来事を物語る叙事詩ではなく、形式的には抒情的な物語詩、あるいは、物語を内包した抒情詩とも言える。古代ギリシャの抒情詩人ピンダロスのような壮大なテーマをうたうのではなく、素朴な聴衆のために世代から世代へと歌い継がれてゆく、わかりやすい抒情的物語詩である」1 と述べているが、その抒情性は主として対話形式で、そして、抑制された形で表現されるのが普通である。
 
 一人の騎士をめぐる姉妹の確執をうたう伝承バラッド『二人の姉妹』(“The Twa Sisters”, Child 10C)で、嫉妬から妹を川に突き落とした姉が「おまえのそのさくらんぼの頬と金髪のおかげで/わたしは一生男知らずになるところさ」と言って激しい感情を露わにするが、物語は決してそこに停滞することなく、どんどん先に、嫉妬という感情が引き起こした事件が語られてゆき、最初から最後まで変化しない「ビノリー ビノリー/きれいなビノリーの水車のほとり」というリフレインが、伝承歌独特の叙情性を生み出している。2 この伝承を元歌としたテニスンの『姉妹』(Alfred Tennyson, “The Sisters”, 1832)では、全6スタンザが姉の独白 (monologue) で占められており、各スタンザ3行目の外を吹く風の表現が語り手の心の内の変化を心象風景として伝えるという絶妙の作品となっている。3
 「独白」という形式そのものは、模倣としてのバラッド詩が生まれた最初期から詩人たちによって愛用されてきたものである。全120行中84行にわたって主人公の内面の苦悩をドラマタイズしたミクルの『カムナホール』(William Julius Mickle,“Cumnor Hall” , 1784)については先に紹介したが、4 テニスンと並んだヴィクトリア朝時代の巨頭ブラウニング (Robert Browning, 1812-89)が取り分け ‘dramatic monologue’ の名手と言われた理由は、製作者(=詩人)が事件の全容を操るのではなくて、事件に至る過程がまるで「意識」が川の流れとなって大きな「岩」(=事件)にぶつかるが如く、主人公の独白を通してのみそのプロセスが’dramatic’に展開する点にある。「意識の流れ」(’Stream of Consciousness’)とは、アメリカの心理学者ウィリアム・ジェイムズ(William James、1842-1910)が1890年代に最初に用いた心理学の概念で、「人間の意識は静的な部分の配列によって成り立つものではなく、動的なイメージや観念が流れるように連なったものである」とする考え方をいい、文学上の手法としてウィリアムの弟ヘンリー・ジェイムズ (Henry James, 1843-1916) やジョイス (James Joyce, 1882-1941)らによって愛用され、統語法を無視したり、黒塗り、白紙のページを配したりして、まとまりの無い意識の流れを伝えようとしたことで知られているが、人間の思考を秩序立てたものではなく、絶え間ない流れとして描こうとする試みは、「意識の流れ」という語の成立以前からあって、最も早い例としてはスターン (Laurence Sterne, 1713-68)の『紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見』(The Life and Opinions of Tristram Shandy, Gentleman, 1759-67) などがある。[主人公の母親が事の最中に「ねえ、あなた、時計のネジを巻くのを忘れていませんでしたか」などという事を言わなければ(‘such a silly question’…’pop[ping] into her head’)このような自分は生まれなかっただろうと語り手が嘆く、筆者が永遠に忘れない独白場面があるように。] 


 詩には普通韻律上の一定の形式が存在し、概ね一つ以上のスタンザ(連)で区分され、脚韻を踏む等々の決まりがある。伝承バラッドも、2行連句や4行連句で、弱強4歩格、3歩格などによって話が進む、いわゆる’common metre’と呼ばれる最も素朴な形式で成り立っている。ところがブラウニングの ‘Porphyria’s Lover’の場合、(小説の場合に一文が何十行にもわたって続く場合のように)まず目に付くのは全60行がスタンザで区分されていない事である。それによって、途切れる事のない意識の流れに読者は誘い込まれる。更に、5行目にピリオドが来るが、6行目から25行目まではコロンやセミコロンを飲み込んだ’one sentence’が続く(途中15行目の中間でピリオドが打たれているが、これは、女が「私」からの返事を待つ一瞬の間合いの演出)。出だしの5行を見てみると、



The rain /set ear/ly in /to-night,/               a 弱強4歩格
     The sull/en wind /was soon/ awake,/       b 弱強4歩格
It tore /the elm-/tops down/ for spite,/            a 弱強4歩格
     And did /its worst /to vex /the lake:/          b 弱強4歩格
     I listened /with heart /fit /to break./           b 弱強/弱強/_強/弱強4歩格(変則)



各行「弱強4歩格」(5行目変則) で、a / b / a / b / b / と韻を踏む伝承バラッドに近い雰囲気を漂わせて独白は始まる。雨が降り出し風が立ってきたと呟かれるが、まるで悪意を持ってかのように楡の木々を薙ぎ倒し、湖面を激しく波立たせる風は尋常に吹く風ではなくて、耳を澄ませて外の様子を窺う語り手の高まる緊張感が伝える「独白」で、読者も一気に「事件」の舞台に誘い込まれる。そこに、ポーフィリアが音もなく入ってくる。まるで亡霊の出現のように。舞台は外の騒音から内の静寂、無音のパントマイムの、官能の空間へ ー彼女は、跪いて、「消えかかった暖炉の火をおこし/、、、立ち上がると/雨水の滴るマントとショールを脱ぎ/汚れた手袋をはずして/帽子をとり 濡れた髪を下ろした」(8-13)。男の名を呼んでも返事が無く、女は男の腕を自分の腰にまわして、「白くなめらかな肩を露わにして」男の頬をその肩に載せ、金髪で覆う (15-20)。
 当事者である語り手の言葉以外には、二人がどのような関係にあるのかはまるでわからない。ポーフィリアは「愛している」と呟いた (‘Murmuring how she loved me’, 21)、彼女はこれまで、何かの(家族の?)しがらみからか、(身分違いの?)プライドを捨てて身を投げ出すことはできなかった、しかし今宵は、「華やかな宴」を投げ打って、叶わぬ恋に身を焦がしている自分のところに雨風を突いてやって来たのだ、と「私」は言う。女の瞳には幸せと誇りが宿り、自分を慕っている、この瞬間、美しくて、純粋、高潔なポーフィリアは自分だけのもの (‘That moment she was mine, mine, fair, / Perfectly pure and good’, 36-37) と思い、その確信を不変のものとするには何をなすべきかに思い至るのであった。女の長い金髪を一つに束ね、細い首に三度巻きつけて締める。

          No pain felt she;
     I am quite sure she felt no pain.
As a shut bud that holds a bee,
     I warily oped her lids: again
     Laughed the blue eyes without a stain.  (41-45; my italics)

          ポーフィリアは苦しまなかった
  きっと苦しまなかったはずだ
中に蜂を宿した蕾(つぼみ)を開くように
  僕はポーフィリアの瞼をそっと開いた
  汚(けがれ)の無い青い瞳が笑っていた

「きっと苦しまなかったはずだ」(‘I am quite sure she felt no pain.’)と、それが独白であることの究極の狂気と歓喜が露呈する。そして、そっと開けようとするポーフィリアの瞼を「中に蜂を宿した蕾(つぼみ)」と表現する官能的比喩こそが、語り手が演出する’dramatic monologue’のハイライトであると言えるだろう。
 首に巻きつけた髪を解いて熱い口づけをすると、もう一度ポーフィリアの頬は赤らむ。「愛しい薔薇色の笑顔が/一番に望むものを手に入れてとても嬉しそう」(52-53)と語り手は納得する。



And thus we sit together now,
     And all night long we have not stirred,
     And yet God has not said a word!  (58-60)


項垂(うなだ)れたポーフィリアの頭を肩に、彼が一晩中待ち続けた「神の言葉」とは、期待する「祝福」なのか、それとも覚悟の「天罰」なのか? これも、「独白」なるが故の、詩人によって計算された’ambiguity’の結末であろうか?

1:  From W. P. Ker, Form And Style In Poetry (1928; London: Macmillan, 1966).
2: 『魅惑の物語世界ーやまなか・みつよしのバラッドトーク』第17話参照。
3:  第105話参照。

4:  第113話参照。
5:  Laurence Sterne, The Life and Opinions of Tristram Shandy, Gentleman, Bk. 1, Chapter 4.

<ひとくちアカデミック情報>

Ker: William Paton Ker, 1855-1923. スコットランドに生まれ、グラスゴー大学とオックスフォード大学に学び、後にオックスフォード大学詩学教授(1920-23)。代表作に、
Epic and Romance: Essays on Medieval Literature (1897; second edition 1908)
The Dark Ages (Edinburgh: Blackwood, 1904)
Medieval English Literature (1912)
Sir Walter Scott (1919)
The Art of Poetry (1923)
Form and Style In Poetry (1928)、その他。
 引用箇所の原文は、“It is not a narrative poem only; it is a narrative poem lyrical in form, or a lyrical poem with a narrative body in it. And it is a lyrical narrative, not of the ambitious kind, like Pindar, but simple, and adapted for simple audiences and for oral tradition, from one generation to another.” (3)


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