第130話 悪酔いしないのはどちらの'John Barleycorn'?

Robert BurnsとG. M. Brown

 
 'John Barleycorn'なる人物ほど時代を超えて愛される存在はいないだろう。昔から今日まで洋の東西を問わず愛されて来たことは、彼がビールやウィスキーの原料になる「大麦」を擬人化した存在であることからして納得いくだろう。バラッドの歌にも詩にも詠われてきた'John Barleycorn'は正に「西洋文化の地下水脈」を成す代表格であると言っても過言ではあるまい。

 日本バラッド協会の会員で、北海道在住のかんの・みすずさん(と、'greyish glow'のメンバー)が2023年3月のZoomによる協会会合で「バラッドを歌う」というパフォーマンス映像を配信された(下の「歌の箱1」参照)。冒頭の演奏曲が'John Barleycorn'であったが、原曲とされたのは1967年結成のイギリス・フォークバンドPentangleのオリジナルメンバーの一人John Renbourn (1944-2015)がペンタングル解散後に作ったグループJohn Renbourn Groupののデビュー作A Maid In Bedlam (1977)に収録の"John Barleycorn"をアレンジされたそうである(下の「歌の箱2」参照)。 

 1960年代のブリティッシュフォークリバイバルの重要人物 A. L. Lloyd (1908-82)その他現代のフォーク歌手たちの愛唱歌1であったこのうたの出だしはいずれも"There were three men came out of the west "(「三人の男が西方からやって来ました)と始まる。イエスが生まれた時にやって来た「東方の三博士」を想起させる表現である(新約聖書『マタイ伝』には三人とは表現されておらず「東から来た博士たち」であるが、「東方から」を「西方から」としているところに、この歌の「パロディ」を嗅ぎつけることはそう困難ではあるまい。最初に断っておくが、「パロディ」とは或る作品を愛のあるユーモアで茶化したりする場合の修辞法で、元の作品を知っていると滑稽さが増し、より親しみ易くなるもので、イギリスの詩人たちが得意とする伝統である)。
 三人は田んぼを耕し、John=大麦の種を蒔き、上から土を被せてJohn殺害を目論む。そのまま長らく放置していると、天からの恵みの雨が降り始め、Johnが頭をもたげてきて皆を驚かす。真夏になるとJohnには長いあご髭が生えて、青白き大人の男に成長する。彼ら三人は人を雇って鋭い大鎌(=scythe)でJohnを膝から切断する。それから彼を結えて、干し草用のフォーク('pitchforks')で心臓を突き刺し、荷馬車で納屋まで運んで、干し草の山を作る。ここまでが大麦収穫のプロセスである。次からはそれを使ってアルコールを醸造する過程に移る(こちらは簡単に)。今度は先の曲がった棍棒を持った男たちを雇い、Johnの皮膚と骨を砕いて分離し、石臼で挽いて細かい粉末にする。かくしてヘイゼルナッツ色したJohnがビールジョッキの中に、グラスの中ではブランデーに。一杯ひっかけなくては猟師は狐も狩れないし角笛も大きく吹けず、鋳掛け屋は鍋釜の修繕も覚束まい、とうたい終わる。

 この作品はジェームズ1世(Charles James Stuart, 在位:1603-25; スコットランド王としてはジェームズ6世)の時代のブロードサイド・バラッドと言われているが、Johnの物語を穀物の神Corn Godの死と復活の古の神話のフォークロアの名残りと捉えるならばその起源はいつとは言えないほど古いものであろう。Robert Burns (1759-96) のPoems, Chiefly in the Scottish DialectのEdinburgh Edition初版(1786)に収録された “John Barleycorn: A Ballad”は、エリザベス朝以降でもっともポピュラーなものかも知れないが、出だしが「東方に三人の王様がいました」となっていることは看過できまい。先に指摘した「西方からやって来ました」ではなく、新約聖書寄りなのである。上に要約した、大麦の穂が実って収穫までのプロセスがRenbournらでは概ね3スタンザ(12行)であるのに対してBurnsでは、同じく3スタンザの中にキリストの十字架上の「うなだれる」姿を彷彿させる表現から、「敵たち」の「狼藉」、「偽造罪で捕えた悪党」という表現が露骨に強調されている:

荘厳な秋が穏やかに訪れると、
 彼は青ざめ、だんだん弱々しくなっていきました。
曲がる関節とうなだれる頭は、 
 衰えゆくことを示していました。

顔色はますます重い病に病み、
 年老いて衰えていきました。
そして敵たちはこの時こそと、
 狼藉(ろうぜき)にかかりました。

敵たちは長く鋭い武器を手にとり、
 ジョン・バーレインコーンの膝をぶった切りにしました。
それからしっかりと荷車に結わえつけました。
 まるで偽造罪で捕えた悪党を縛るように。(17-28) 2

そしてRenbournらでは、アルコール醸造過程も5行で済ませているところ、Burnsでは4スタンザ16行にわたって、「こん棒で激しく叩き」(st. 8)、水責めの拷問にし(st. 9)、なおも息の根あれば「上下左右あちこちに投げまわし」(st. 10)、骨の髄まで炎にかけて「焼き尽くし」、石臼でひきつぶした (st. 11)と、Johnに対する残虐行為が強調されて、その流れで、「やつらは彼の心臓の血」を回し飲みし、「歓喜に満ち満ちていきました」(st. 12)とくれば、これはJohnを殺した奴らの勝利の祝杯ということになるではないか。次のスタンザで、「その血を少しでも味わうならば、/勇気がりんりんと沸き上がってくる」という言葉には文脈上のギャップが大き過ぎて浮いて聞こえる。アルコール讃歌にはほど遠く、悪酔いしそうな後味が残るというのが正直なところである。 

 20世紀のスコットランド・オークニー島の詩人George MacKay Brown (1921-96) の「戯曲からの3つの歌」('Three Songs from a Play')の一つとして「ジョン・バーリーコーン、農夫、そして畝のバラッド」('The Ballad of John Barleycorn, the Ploughman, and the Furrow')という作品がある。 擬人化された「畝」(‘furrow’)が語り手の農夫に、「連れ合いのジョン・バーリーコーンを見かけなかったか」と尋ねるところから始まる。農夫が「金色のあご髭の男かい?」と尋ねると、「畝」はジョンがいなくなった経緯を説明する。男たちがナイフでJohnを殺して、棒や竿で骨を砕き、粉屋が石臼で粉々にし、パン屋がその粉でパンを焼き、酒造りが心臓を盗んで大樽に詰めた、それ以来ジョンの姿を見かけたものがいないの、と言う。空腹で足を引き摺りながらジョンを探して歩いているのと訴える。語り手は袋からパンを取り出して腹を空かせた「畝」に与え、ポケットから小瓶を取り出してウィスキーを注いでやる。差し出されたウィスキーですっかり元気になった彼女は、連れ合いのことなど忘れてしまって、あっさり農夫とベッドに直行ということになる。

彼女は食べ、飲み、笑い、踊った。
そしてわたしと一緒に家へ戻った。
古い藁のベッドのロウソクの灯の下で
彼女はもうバーリーコーンを求めて泣かなかった。  (41-44)

 伝承バラッド「三羽のカラス」('The Three Ravens', Child 26)が、戦いに敗れて野に倒れている一人の騎士を守る「誠実な猟犬(いぬ)と 誠実な鷹(たか)と 誠実な恋人」をうたうのに対して、「二羽のからす」('The Twa Corbies', Child 26 headnote)は、「「その猟犬(いぬ)は狩りに出かけた/鷹(たか)は獲物(えもの)をとりに出かけた/愛人(おんな)ははや 別の情夫(おとこ)に首ったけ」と、見事にパロディ化しているが、Brownは正にこの路線を踏襲してみせたのである。

 Renbournらと同じ内容の歌詞でうたったMartin Carthy (1941- )はThe Carthy Chronicles (2001年)の中で、"Forget the academic stuff about death and rebirth, fertility symbols and corn gods! The reason that this is one of the best known and most popular of all ballads―and one which has crossed a great many musical thresholds―is that it’s actually about that other activity which most commonly accompanies the singing of traditional songs―drinking!" (死と再生とか、豊穣の象徴とか、穀物の神々礼讃とか、糞食らえ!この歌があらゆるバラッドの中でも最もよく知られたポピュラーなものの一つである理由、多くの音楽家たちに受け入れられてきた理由は、伝承の歌をうたう時に無くてはならない最も一般的な行ない、すなわち酒を飲むという行為を実際にうたっっているからである。)と述べて、このバラッドを単純なアルコール讃歌としてうたうことを推奨しているのである。悪酔いしないためにこの喝破された意見に賛成!

 

注1:詳細情報については、Mainly Norfolk: English Folk and Other Good Music (https://mainlynorfolk.info/lloyd/songs/johnbarleycorn.html) 参照。

注2:日本語訳は『ロバート・バーンズ詩集』(国文社、2002年)より。原文は「Burns 原詩の箱」参照。 

注3:筆者の「John Barleycorn”をめぐる二つのバラッド」(『日本バラッド協会』情報広場「研究ノート」(2010/9) 参照 (https://j-ballad.com/information/research/1025)。三人の詩人Burns, Brown, Muirの伝承バラッドに対する姿勢についてはその研究ノートに整理しているので、重複を避けるためにここでは詳細は繰り返さない。

<ひとくちアカデミック情報>
scythe:古来'scythe'は「時」Time ないし「死」Deathの象徴として用いられてきた。Cf. Shakespeare, Sonnet XII : "nothing 'gainst Time's scythe can make defence / Save breed,  to brave him, when he takes thee hence." (13-14); 「こうして「時」の鎌が 君を刈りとろうとするとき/立ち向かう手だては ただ一つ 子供をつくるということ」(中西信太郎訳)