第120話 「敗北が生み出した至高の美と崇高なる物語」

ウィリアム・E・エイトン 『モントローズ候の処刑』(William E. Aytoun, “The Execution of Montrose”, 1844)



    スコットランド・オークニー島の詩人・小説家ジョージ・マッカイ・ブラウンは、The Highlands and Islands of Scotland に寄せた「前書き」(1990)で、「敗北こそが、ハイランドをして美と崇高なる物語の象徴たらしめたのである」と述べて、チャールズ・エドワード・ステュアート(Charles Edward Stuart, 1720-88)の「カロデンの戦い」 ('Battle of Culloden', 1746)によるスコットランドの最終的な敗北に言及している。しかし祖国の運命はスコットランド王ジェームズ6世が1603年にイングランド王ジェームズ1世(在位:1603-25)として即位して始まった同君連合に遡り、1707年にグレートブリテン王国に統合されるまでの間にスコットランドは独自の王を失ない、徐々にスコットランドらしさを無くしてゆく混乱の時代を過ごしたのであった。ジェームズ6世の次男として王位を継いだチャールズ1世(在位:1625-49)が絶対王政を強めて議会との対立を深め、清教徒革命(1642-49)によって処刑され、クロムウェルによる独裁的共和体制(1649-60)、チャールズ2世(在位: 1660-85)による王政復古から名誉革命(1688-89)を経てイングランド国教会の国教化が確定、1707年の議会の統合をもってスコットランドの抵抗は実質的な終焉を迎えることになる。
 初代モントローズ侯爵ジェイムズ・グラハム(James Graham, 1st Marquess of Montrose, 1612-50)は、1626年父の死によって襲爵し第5代モントローズ伯となり、セント・アンドルーズ大学に学んだ清教徒革命期のスコットランド貴族である。初め、チャールズ1世のイングランド国教会形式の祈祷書実施と監督制強行に強く反発して国民盟約を結成、いったんは国王軍に勝利してスコットランドを平定するも、戦後に盟約派は二派に分かれ、スコットランドの完全なる自治を主張する強硬派と長老制さえ確保できれば国王のもとにあるべきとする穏健派に分裂する。穏健派の代表格であったモントローズは、強硬派のアーガイル侯 (Archibald Campbell, 1st Marquess of Argyll, 8th Earl of Argyll, 1607-61)と対立、逮捕・監禁される。1641年に盟約派との和睦を求めたチャールズ1世の介入で釈放されるが、盟約派内の対立からモントローズら穏健派は王党派につく。1644年、チャールズ1世からモントローズはスコットランド総督に任命され、1月から北イングランドで挙兵の準備を進めた。その後一進一退の攻防が続き、翌1645年2月2日のインヴァロッヒーの戦いでアーガイル侯の軍を撃破し、盟約派がイングランドへ逃亡した後はグラスゴーへ入りチャールズ1世の名で議会召集を図るまでになり、連戦連勝を重ねたモントローズの軍事的名声は絶頂に達した。しかしながら、その後盟約派の反撃に会い、9月13日、デイヴィッド・レズリー(David Leslie, 1st Lord Newark, c.1600-82)の軍にフィリップホーの戦いで敗れる。スコットのMinstrelsyで紹介された“The Battle of Philiphaugh” (Child 202)はこのモントローズの敗北をうたうものであったが、敵でありながら彼は「あの偉大なモントローズ」と表現された。

Now let us a’ for Lesly pray,
     And his brave company,
For they hae vanquishd great Montrose,
     Our cruel enemy.   (st. 21)

さあ レズリーを称えよう
     彼とその仲間の軍勢を
なにせあの偉大なモントローズを
     憎き敵を倒したのだから

 1649年1月30日のチャールズ1世処刑はスコットランドの大部分で反発を引き起こし、かつて敵であったアーガイル侯やレズリーら盟約派も王党派と手を組み、チャールズ2世の即位を承認しイングランド共和国打倒を目指した。だが、盟約派は国教会主義の放棄とイングランド・スコットランド・アイルランドを含む長老派教会の受け入れ及びモントローズら王党派の排除をチャールズ2世に迫り、後ろ盾がないチャールズ2世は屈して条件を受け入れた。翌1650年にオークニー諸島で挙兵したモントローズはチャールズ2世のこの裏切りにあって孤立し、4月27日、ハイランドのカービスデールの戦いで再びレズリー率いる盟約軍の奇襲を受けて敗走、オークニー諸島へ戻る途中で捕えられ、馬上に括り付けられ見世物にされる屈辱を強いられた。そして5月21日にエディンバラでアーガイル侯によって処刑され、遺体は各地にばらばらに分散された。その後1660年に王政復古で共和国が終焉、チャールズ2世が復帰した翌1661年にアーガイル侯は処刑され、モントローズの遺体は集められて祖国の英雄と祀られた。先の“The Battle of Philiphaugh”に続いてMinstrelsyは”The Gallant Grahams” (これはチャイルドには収録されていない)という作品を紹介しているが、この歌は歴代グラハム家の功績を讃え、裏切られたモントローズの死を次のようにうたっている。

Then woe to Strachan and Hacket baith!
     And Lesley, ill death may thou die!
For ye have betrayed the gallant Grahams,
     Who aye were true to majestie.

And the laird of Assaint has seized Montrose,
     And had him into Edinburgh town;
And frae his body taken the head,
     And quartered him upon a trone.    (sts.20-21)

 以上のように、モントローズの評価は国の運命とともに激しい浮沈を繰り返すものであったが、最終的には祖国の王を守り抜こうと身を捧げた忠誠心が国民の心を揺さぶったのであろう。

 エイトンは、そのような「偉大なる侯爵殿の死にざま」(24)をあらためて作品化したのである。ハイランド兵を指揮してモントローズと共に戦った老兵(?)が、裏切り者の所為で処刑台に上る英雄の毅然とした態度を息子に語って聞かせる。
 後ろ手に縛られて侯爵殿がウォーターゲートへひき立てられる。「バルコニーには西国の長老派の領主たち」や「黒衣を纏(まと)った盟約者ら」がこの場かぎりの戯れを一目見ようと群がっている。(53-60) だがやってきた侯爵殿の高貴なる姿に一同の者たちは息を呑む。

・・・・・侯爵殿は
     青ざめるともあまりに崇高
雄々しい額はあまりに高貴
     見据えるその目はあまりに静か
野次馬どもは叫ぶを止めて
     みな一様に息を呑み
死を覚悟した英雄の
     魂しかと受け止めた
身も震わんばかりの哀しみが
     次第次第に伝わって
侯爵殿を嘲り集うた者たちまでも
     顔を背けて涙した (61-72)

But when he came, though pale and wan,
     He looked so great and high,
So noble was his manly front,
     So calm his steadfast eye; —
The rabble rout forbore to shout,
     And each man held his breath,
For well they knew the hero’s soul
     Was face to face with death.
And then a mournful shudder
     Through all the people crept,
And some that came to scoff at him
     Now turnd aside and wept. (my italics; ブラウンが‘high romance’と表現した’high’の意味はここに通じるものか?)

次の引用の下線部分は、下の「歌の箱」でこれをうたうスコットランドのフォークトリオ・マッカルマン (The McCalmans)が三度繰り返す場面であるが、後世まで伝わるスコットランド人としての無念さがよく表現されている。

わが一族五十人と
  剣さえこの手にあったなら
エディンバラの目抜き通りで
  鬨(とき)の声挙げていたものを
荒れ狂う馬一群とて
  鎧を纏(まと)った兵一団とて
南のあらゆる反逆者とて
  われらを退けられはしなかったろう    
いま一度ハイランドのヒースの上を
  あの方が自由に歩めるならば
私と私(この)の名をもつすべての者は
  お傍(そば)にお仕えするものを (97-108)

(Had I been there with sword in hand, / And fifty Camerons by, / That day through high Dunedin’s streets / Had pealed the slogan-cry. / Not all their troops of trampling horse, / Nor might of mailèd men — / Not all the rebels in the south / Had borne us backwards then! )

刑場に立ち上がったモントローズは、「わたしは決して戦場(いくさば)で/栄冠求めはしなかった」 (129-30)、「信と義のため裏切り者に /いつもこの手を揮(ふる)ってきた」 (137-38)と言って、「頭は塔に釘付けし/ 四肢は此方此方(こちごち)にくれてやれ」(141-42)と言い放つ。亡骸はそのように処理されたのであった。

Glencoe azami heather
グレンコー アザミ ヒース


 高い山が無く、なだらかな丘陵が続くスコットランド南部と東部の低地地方 (the Lowlands)からハイランド地方(the Highlands)に一歩足を踏み入れた途端に一変する風景は、そこが剥き出しの岩山だらけのグレンコー(cf. グレンコーの虐殺, ‘The Massacre of Glencoe’, 1692)であれ、ジャコバイト軍完敗の舞台となったカロデン湿原であれ、スコットランドの敗北の歴史と深く結びついている。しかしそこはまた、起伏に富んだ風光明媚な大自然を今に残し、点在する古城を取り巻くように咲くアザミ(スコットランドの国花)や全山を覆って咲く赤紫のヒースの花などなど、文明の破壊的な手が及ばない至福の場所でもある。詩人ブラウンの「前書き」の見事な文章が伝えるものである。(3枚の画像はいずれも筆者撮影)

  

ひとくちアカデミック情報
ジョージ・マッカイ・ブラウン:George Mackay Brown, 1921-96. ブラウンは「前書き」の出だしで、美しいハイランドの自然と歴史と詩について、次のように述べている:“Strangely, it was out of defeat that the Highlands of Scotland became a symbol of beauty and high romance. On a cold April day in 1746 the remnants of Prince Charles Edward Stuart’s army were crushed by the disciplined Hanoverian army at Culloden moor near Inverness. That, it seemed, was ‘the end of an old song’….
     The Gaelic peoples have the gift of transmuting suffering and defeat into beauty. The hunting of Prince Charles Edward by the redcoats through the mountains and islands, which he and his handful of men bore with such cheerfulness, and his final escape on a French ship, touched the imagination of the people and begot a hundred beautiful poems and songs, so that even the next generation of Englishmen was moved by the endurance and the heroism….
     Now, romanticism had set the imagination free again, and a great outpouring of literature —Scott, Byron —extolled the wild beauty of the Highlands, and the bravery and loyalty of its people. The delight has never been extinguished. (From ‘Foreword’ to The Highlands and Islands of  Scotland by Angus and Patricia Macdonald, 1991) 

 


 

 

 

コメント   

+1 # hisaglen 2021年10月12日 19:54
敵か見方か、いっときも油断でき なかった、当時のスコットランド の政情の中、立場を貫いたモント ローズ伯への惜しみない賞賛に溢 れた鑑賞を読ませていただきまし た。
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