第117話  バンシーになったモル・マギー
ウィリアム・バトラー・イエイツ『モル・マギーの歌』 (William Butler Yeats, “The Ballad of Moll Magee” , 1889)


 ラフカディオ・ハーンは、明治24年(1891年)の陰暦7月15日から妻節子と二人で山陰地方の小旅行に出かけた時のことを「日本海の浜辺で」という文章に記しているが、ある夜の夢の中で出雲の女とおぼしきものが「長い歳月(さいげつ)の距(へだた)りを通して来るようなかすかな声でもって」うたい始める。それを聴いているうちに、「ケルトの子守歌のぼんやりした記憶」がよみがえってきたと記している。また別の場面でハーンは、節子から「子供を捨てた父」の出雲民話を聴かされたと言って紹介している。ある村の百姓は大変な貧乏暮らしで、妻が子供を生むたびに川に流し、世間には死産だったと言っていた。六人の子供はこうして殺されていったが、やがてその百姓も少しは暮しが楽になり、土地を買い、金を貯めることもできるようになって七番目の子供(男の子)が生まれる。赤ん坊は大切に育てられ、今では五ヶ月になっていた。息子を抱いて夜の庭を散歩していた百姓が思わず大きな声で「ああ、今夜めずらしい、ええ夜だ」と言った。するとその子が、下から父親の顔を見あげて急に大人(おとな)の口を利いて言った。

「御父(おとつ)つぁん、わしを仕舞(しま)いに捨(し)てさした時も、丁度今夜(こんや)の様(よ)な月夜だたね」
 そしてそう言ったかと思うと、子供はまた同(おな)い年のほかの子たちと同じようになり、もうなにも言わなかった。
 
 百姓は僧になった。(小泉八雲『明治日本の面影』講談社学術文庫, pp. 121-22)

 1896年に東京帝国大学文科大学の英文学講師に就任したハーンは、そこでの講義を通して、イギリスの伝承バラッドの存在を初めて日本に紹介した。上の出雲の民話の場面では、きっとチャイルド20番の’The Cruel Mother’(「残酷な母」)が頭をよぎったであろう(第41話参照)。貧しい女が小さなナイフを取り出して、サンザシのもとに生み落とした赤子の命を摘み取り、月の明かりで墓を掘って、埋める。後日、女が教会に行こうとしたら、戸口に赤子がいた。

「可愛い赤ちゃん おまえがわたしの子供なら
絹の服を着せるのに」

「お母さん わたしがあなたの子供だったとき
そんなに優しくはなかったはず」  (sts. 6-7)

 アイルランド文芸復興で重要な役割を果たし、1923年にノーベル文学賞を受賞したイエイツは若き頃、Poems and Ballads of Young Ireland (1888)への寄稿者として文学活動を始め、自ら収集した『アイルランド農民の妖精物語と民話集』(Fairy and Folk Tales of the Irish Peasantry, 1888年)を刊行した。そうした彼がイギリス詩の状況について次のような発言を残している。「イングランドにはバラッド詩形で書かれたたくさんの美しい詩がある。しかし真のバラッドー民衆の詩ーはコマーシャリズムの波に押し流されて姿を消した。民衆のバラッド文学が立ち上がるためには、図書館に身を潜めているのではなくて民衆の心の内に息づく国民的な伝承が不可欠であり、詩人の心と民衆の心は乖離するのではなくて一つにならなくてはならないのである。」(“Popular Ballad Poetry of Ireland” 1889より)

 教区の信者が病の床に臥した挙げ句次から次へと死んでゆく中、昼も夜もお祈りに走り回って疲れ果て、思わず椅子に眠りこけている間に信者の死に間に合わなかった老神父ピーター・ギリガンの詩(‘The Ballad of Father Gilligan’, 1890)を書いたイエイツは同時期に、働きづめの毎日に疲労困憊して思わずうたた寝をしていて愛児を殺してしまった女の悲劇を謳っている。

何かぶつぶつ呟きながら歩いている女に子供たちが石を投げている。可哀想と思って止めておくれと頼むその女、マギーが身の上話を始める。

おいらの旦那は 近海(ちかば)で網を張る   
貧しい漁師だったの
おいらの仕事は 日がな一日 
ニシンの塩漬けさ (5-8)

塩漬け小屋から戻る時、脚が棒になって歩けないこともあったという。そんなマギーに赤ん坊が生まれる。昼間は近所の人にみてもらい、夜から朝までは自分がみる。そんな中で事件が起きる。  
     
おいらは赤ん坊(ぼ)の上に俯(うつぶ)せてたの
可愛いお前たち 聞いておくれ
凍るような寒さの 物音ひとつ無い朝が来て
おいらは 冷たくなった赤ん坊(ぼ)をまじまじと見つめていた  (17-20)

疲れ果てて、赤ん坊を下に、眠りこけてしまっていたのだ。亭主からは「人で無し」と喚かれ、手切れ金を渡されて、追い出される。黙って立ち去ったマギーは、顔見知りのマーティン爺さん婆さんから「ひとかじりのパンとスープ」を恵んでもらい、その内きっと旦那が迎えに来るさと慰められる。しかしマギーは相変わらず、「時には軒下に身を寄せ 時には野宿しながら」(44) さまよっている。薪割りしたり、井戸水汲みの日銭稼ぎをして、赤ん坊のことを思いながら「悲しみの歌」をうたうのであった。

Pilin’ the wood or pilin’ the turf,
Or goin’ to the well,
I’m thinkin’ of my baby
And keenin’ to mysel’. (45-48)

‘keen’とは、アイルランドやスコットランドの古語で「(死者に対して)哀歌を歌う; (死者を)泣き悲しむ」という意味である。

220px Banshee
banshee


 両国に伝わる女妖精バンシー(英語: banshee、アイルランド語: bean sidhe)とはケルト語の「フェアリーの女(’ban'は女、'shee'は妖精)」という意味の言葉からきており、「家族に死者が出ることを泣き叫びながら予告する女の妖精」を意味する。イエイツはIrish Fairy Tales (1892)でアイルランドの妖精たちを社交的タイプと孤独タイプの二つに分類して、バンシーを後者に入れて、元々は良い性格の女であったが、度重なる不幸が孤独に追いやったと解説している。マギーの赤子は既に死んでいるが、バンシーと化して諸国をさまようマギーの歌は、未来永劫、同じような貧しい運命の中で死を迎えてゆく子供たちを予告する妖精の歌に聞こえてくる。時代や場所を超えて繰り返される民衆の「悲しみの歌」である。ハーンが日本海の浜辺で聞いたもの然り、イエイツに遡る一世紀前、ワーズワースのマーサ・レイがサンザシの木の下で「ああ かわいそうに ああ かわいそうに」と繰り返し続けた声、いずれもバンシーの声であった。モル・マギーは妖精バンシーになった。

ひとくちアカデミック情報
ラフカディオ・ハーン:Lafcadio Hearn (1850-1904). イオニア諸島合衆国レフカダ島(現在はギリシャ領)に生まれたハーンは二歳の時に、軍医であった父親の出身地アイルランドのダブリンに移り住み、1863年にイングランド・ダラム市郊外のセント・カスバード・カレッジに入学するまでの13年間をアイルランドで過ごした。預けられた父方の大叔母の厳格なカトリック文化の中で育てられたハーンはキリスト教嫌いになり、ケルト原教のドルイド教に傾倒するようになったと言われている。1869年に渡米。ジャーナリストとして活躍の後、1890年(明治23年)、出版社の通信員として来日。しかし、その後に契約を破棄して日本にとどまり、英語教師として教鞭を執るようになり、松江・熊本・神戸・東京と居を移しながら日本の英語教育に尽力し、欧米に日本文化を紹介する著書を数多く残した。1896年に東京帝国大学文科大学の英文学講師に就職。日本に帰化して「小泉八雲」と名乗る。