第111話 メッセージバラッド  
レディー・エリザベス・ウォードロー 『ハーディクヌート』 (Lady Elizabeth Wardlaw, “Hardyknute” , 1719)

 「民衆バラッドを模倣した最初のバラッド詩」 (『ブリタニカ百科辞書』)と称される『ハーディクヌート』(“Hardyknute") が1719年に世に出た時には、これはウォードロー夫人がダンファームリン(Dunfermline)の教会地下埋葬室で発見した作者不詳の民衆の歌であるとされていた。スコットランド東岸フォース湾から約3マイル、首都エディンバラからは湾を隔てて北西へ約15マイルに位置するその町は、かつてスコットランド王国の首都であった時期がある。夫人は、1677年にチャールズ・ハルケット男爵 (Sir Charles Halket)の二女として生まれ、96年にヘンリー・ウォードロー男爵 (Sir Henry Wardlaw)と結婚、三人の娘と一人の息子の母親であった。バラッド詩を書く上で、自らの高貴な身分を隠すこと、しかも女性であることを隠すことは、未だ当然の時代であった[ヴィクトリア朝を代表する作家の一人ジョージ・エリオット(George Eliot)が本名メアリー・アン・エヴァンズ(Mary Anne Evans)を隠して男性名 ‘George’を名乗ったことは周知の通り]。パースィでさえ、ウォードロー夫人が作者である可能性は高いとしながらも、なおも断定しえなかったほどのバラッドの秀作とはどのようなものであったのか。
 作者をめぐって種々展開した論争の副産物として興味深いのは、一時期逆に、ウォードロー夫人が有名な伝承バラッド『サー・パトリック・スペンス』 ("Sir Patrick Spens") の作者でもあると推測されたことである。それほど、『ハーディクヌート』にはこの伝承バラッドが塗り込められているのである。(*)
 城壁を東へ西へと伸し歩く男が登場する。70年の齢(よわい)を重ね、スコットランドに災いをもたらすあらゆる敵と戦ってきた「恐るべき武者」(8)であった。しかし、話は男の家族構成から始まる。「奥方は比類なく麗(うるわ)しく/貞節と美を兼ね備え」(13-14)ていて、二人には13人の息子が生まれ、9人は戦で死んだが4人が健在、息子らには優しく愛しい妹フェアリ―がいる。しかし、その美しさが、家族・親類縁者の皆にどんな悲しみをもたらしたかということが「後の世に語り伝えられている」(32)という不吉な予告で話は進行することになる。

Dunfermline Palace
(ダンファームリン宮殿廃墟_筆者撮影)

 ある夏のこと、ノルウェー軍がスコットランドに攻め入って来る。その報せがスコットランド王に届いた時 、王は晩餐の最中で、「血のように赤いワインを飲んでいた」(40)。ダンファリンの町で血のように赤いワインを飲んでいた『サー・パトリック・スペンス』の王様と同じである。話を簡単にしよう。「ダンファリン」は、冒頭に述べた「ダンファームリン」に同じ。スコットランドの安定と繁栄の黄金時代をもたらした国王アレグザンダー三世 (Alexander III, 在位1249-86)の娘マーガレットがノルウェー王のもとに嫁ぐ折の海難をうたったと想像されている『サー・パトリック・スペンス』に対して、ウォードロー夫人の作品は、国を勝利に導いた「ラーグの戦い」そのものが舞台であった。若き君主を助けた勝利の立役者はアレグザンダー・ステュワート(Alexander Stewart, 1214-83)。時にステュワート49歳。作品での主人公ハーディクヌートはこの立役者に見立てられているのである。夫人の最大の創作意図は、主人公の年齢を49歳ならぬ70歳と設定した点にある。
 敵は20,000の軍勢 (史実では15,000)、王はただちに小姓を送り、ハーディクヌートに火急を知らせ、国難を救うべく出陣を乞う。平和な緑の森に遊んでいた息子たちを呼び寄せて語る次の台詞は、老雄の心境を的確に伝えるものであった。

「昨日の夜は じっと静かに
長すぎた人生の 終わりの時を想っておった (73-4)
(‘Late, late yestreen I ween’d in peace
To end my lengthened life,)

しかし、国難を前に、もはやそれもかなわない。『サ・パトリック・スペンス』で、王の命令通りに船出を決意する主人に部下の者が、「昨夜みたのは片われ月/陰を抱いた片われ月/海へ乗り出しゃ 船長/どえらい目にあいますぜ」(“Late late yestreen I saw the new moone, / Wi the auld moone in hir arme, /And I feir, I feir, my deir master, / That we will cum to harme.” (Child 58A; 25-28, イタリック筆者)と言って不吉を予感したように、老雄ハーディクヌートのセリフも、不吉な予感を響かせながら、王の命令が絶対であった時代を生きた人間の運命の物語に読者を引き込んで ゆく。
 妻の手を取った老雄は、「類なく麗(うるわ)しい妻よ・・・/・・・/歳をとって おまえは一層美しい」(97-99)と述べながら(作者に言わされて?)、しばしの別れを告げる。続く奥方の涙の詳細な描写にも、作者の秘められた意図が感じられる。

奥方の涙は まずは美しい頬を濡らし
 次には 緑色の胴着をも濡らすほど
強く縒(よ)った絹糸で織られ
 輝く銀糸を編み込んだ贅沢なもの
さらに涙は ビーズを縫い込んだエプロンを濡らした
 見るも珍しい手縫いのエプロンは
他の誰あろう 美しい娘フェアリー自ら
 縫ったもの  (105-12)

一行は途中で、怪我をして瀕死の若い騎士に出会う。ハーディクヌートは、供の一人をあてがい、館に運んで助けようとする。次の台詞は、彼の優しい性格を伝えるとともに、物語の大団円を不気味に暗示することになる。

「騎士よ わしの城へ行かれよ
 絹張りの椅子で休まれよ
妻が優しく介抱しますぞ
 人を嫌うことを知らぬ女だ
昼間は妻が自ら付き添い
 真夜中は侍女たちが付き添いますぞ
美しいフェアリーが あなた様の側(かたわら)
 心の慰めとなりますぞ  (121-28)

館に行くようにとどんなに説得しても、もうこのまま死ぬばかりだと言い張る若者を後に残して、ハーディクヌートは戦場に向かう。この傷ついた若者との出会いの小さなエピソードが、物語の結末と一本の糸で繋がる伏線となってゆく。
 3,000の家来ともども抜き身の刀を陽に輝かせ、バグパイプの奏でる勇壮な調べに先導されて国王に合流し、戦(いくさ)の柱であり、国の楯であり誇りである、と迎えられるハーディクヌートの姿は、そのまま若き日のハーディクヌートの変わらぬ雄姿であろう。そして、すべての戦いが終わり、戦場が屍(かばね)の山となるのも、戦いというものがもたらす不変の姿であろう。

ノルウェーの浜辺では 未亡人となった奥方が
 岩を涙で洗うだろう
帆影の見えない海をじっと見渡し
 帰らぬ夫を待つだろう  (297-300)

『サー・パトリック・スペンス』と同じ情景である(「奥方様がいついつまでも/扇かざしてすわるでしょう/サー・パトリック・スペンスが/港に帰るのを待ちわびて」58A: st. 9)。王の命令に従って生きざるをえなかった男たちの運命と、虚しく取り残された女たちの悲しみをうたう場面は、戦時においても平時においても同じである。
 勝利を収めて戻ってきたハーディクヌートが目撃したのは、明かりの消えた館であった (第40スタンザ)。妻も、美しい娘フェアリーも、見張りの者も、姿が見えない。恐怖に駆られて逃げ去る息子や家来たちの様子からも、皆の上に何か、ただならぬ出来事が起こったのではないかと想像させる。初版は第40スタンザまでであったが、ウォードロー夫人が自らが作者である証として提出したといわれる追加の二つのスタンザ(41、42スタンザ)の中で一際重く響くのは、妻と美しい娘フェアリーを顧みず戦いに出かけていったことを悔い、勝利の誇りを失ってしまう老雄の姿であった。

「敵をなぎ倒してきたわしが  急いで駆けてきたのに」
 戦(いくさ)の自慢話もそこまでだった
妻と美しいフェアリーを気にかけず
 他に気を取られていた我が身を恥じた
暗黒の恐怖に呑まれた しかし何が恐ろしいのか
 ハーディクヌートはとっさにはわからなかった
ただ恐れ 体を震わせ 手足を震わせた (329-35)

戦場に出かける際に、妻の手を取って、長い人生の年輪の中に輝く老妻の美しさを称えたハーディクヌートのあの言葉は、もはや雄々しき武将であるよりも、人生の伴侶へのごく普通一般の人間の優しさに充ちた台詞であった。今、わけもわからず恐怖に震える理由は明かされず、意味が明快でない点を作品の弱点として指摘することは可能かも知れないが、彼はただ恐怖にのみ震えていたのではなくて、人生最後の段階で到達していた筈の静謐の心境をみずから覆すことになった、取り返しのつかない後悔をどこにぶつけてよいのかわからない、そういう震えに身を苛んでいたのではないか。娘フェアリーの美しさが一族朗党に悲しみをもたらしたという第4スタンザでの予告と、ハーディクヌートが途中の道端で出会った傷ついた若者は、やはり無関係ではなかったのではないか。家来の者を付けて館に行かせようとしたハーディクヌートの親切な申し出を頑なに拒んだのも、この騎士の意図ではなかったのか。屈強の者たちの留守を知ったうえで館に向かった彼が、美しい娘フェアリーを強引に求めるなかで、全員を皆殺しにしたのか、それとも、ほかの者を皆殺しにしてフェアリーだけを連れ去ったのか、或いはまた、彼は最初からノルウェー側の密偵で、彼らがもっとも恐れるハーディクヌートにダメージを与えようという作戦通りの手順だったのか。真相は、今 こうして彼が辿り着いた館そのもののごとく、闇の中である。ただ、この騎士が道端でハーディクヌートに語った、「ここに横たわり死にゆく運命(さだめ)/裏切り者の邪悪な企みに引っかかったのです/邪(よこしま)な女の微笑みを信じたわたしは/なんと浅はかだったことか」(117-20)という台詞が、巧みに悲劇的アイロニーを生み出している。この騎士は、女を信じて編されたという。ハーディクヌートは、道端で出会った見知らぬ騎士を無条件に信じて、妻や娘を紹介しようとした。作者は、敗北したノルウェー側の取り残された女たちの悲しみをうたうだけではなく、救国の英雄ハーディクヌートの、栄光に包まれた人生最後での、それだけ一層大きい悲しみに焦点を当てているのである。作者が女性であったことが、「妻と美しい娘フェアリーを顧みず・・・」という老雄の最後の悔いを一段と説得力あるものにしている。 「メッセージソング 」ならぬ「 メッセージバラッド」と題した所以である。

今回の論考の詳細は拙論「18世紀序曲: “Hardyknute”」(https://literaryballadarchive.com/PDF/Wardlaw_essay_1.pdf)参照。

ひとくちアカデミック情報
「ラーグの戦い」:‘The Battle of Largs’. アレグザンダー3世の父アレグザンダー 2世は1249年、スコットランド西方諸島を支配するノルウェー軍からの領土奪回の志半ばに倒れ、アレグザンダー3世が8才の若さで王位を継ぐ。13年後の1262年、今や雄々しき21才の青年王となったアレグザンダー3世はスカイ島を奪回。ノルウェー王ホーコン(Haakon)は、翌63年、200隻の船と15,000の軍勢という史上最大の大軍を率いて、スコットランド西方支配の最後の試みに出る。8月の終わり、ケレラに結集、ロッホ・ローモンドまで侵入しながらも、アレグザンダー3世の防御の砦は固く、10月2日、恐らくスコットランドにとっては「神風」ともいうべき暴風雨にも恵まれて、ノルウェーの艦隊はクライド川に壊滅、ホーコンはオークニー島まで後退し、そこで死ぬ。この10月2日の戦いが「ラーグの戦い」と呼ばれるものであるが、この勝利によってアレグザンダー3世は65年にはマン島を含む全西方諸島を掌中に収め、ノルウェーはオークニーとシェトランドを除く全支配地をスコットランドに譲ったのであった。