第134話 愛国の亡霊ー政治とバラッド (1)  
リチャード・グラヴァー『ホージャー提督の亡霊』(Richard Glover, “Admiral Hosier’s Ghost”, 1739)

Percy編纂の Reliques of Ancient English Poetry (1765)に収録されたグラヴァー (1712-85)の『ホージャー提督の亡霊』(Richard Glover, “Admiral Hosier’s Ghost”, 1739)は、19世紀大英帝国の国威高揚に貢献して大変な人気を博したテニスンの "The Charge of the Light Brigade" (1854) が生まれる一因となったと評されるが、そこに登場する「亡霊」は前回のテーマ「ゴシック・ユーモア」とも無縁、本来の死の恐怖を生み出す役割でもなく、極めて真面目な存在であることが目を引く(因みに、テニスンの作品には亡霊は登場しない)。


Leonidas (1737)、The Athenaid (1788)などの叙事詩で知られるグラヴァーのもう一つの顔は実は国会議員であった。1739年にLondon, or the Progress of Commerceを出版して、時の宰相ロバート・ウォルポール (Robert Walpole, 1676-1745)の対スペイン平和外交に反対する国民感情を煽ったが、同じ目的をより効果的にしたのがこのバラッド詩であった。ウォルポールが同年10月、ウィリアム・ピット(William Pitt, 1st Earl of Chatham, 1708-78)率いる野党とロンドン商人たちの世論に押されて不承不承に対スペイン宣戦を布告するや否や(いわゆる’the War of Jenkins’ Ear’2)、11月22日、エドワード・ヴァーノン提督 (Edward Vernon, 1684-1757) 率いる英国艦隊はスペインのアメリカ植民地主要都市であったポルトベロを奪取した。グラヴァーはこの成功を祝す歌として表題のバラッド詩を作ったのであるが、彼の巧妙なところ(これを敢えて、批評用語で言うところの‘intentional fallacy’と呼びたいほど、彼の戦略は巧みであったと言いたい)は、ヴァーノン提督を主人公にするのではなくて、その時を遡る十数年前に同じ海上で悲劇的死を遂げた別の提督をクローズアップした点にある。1726年4月、フランシス・ホージャー提督(Francis Hosier, 1673-1727)の艦隊がスペイン艦隊を封鎖し、抵抗するものは捕獲してイギリスに曳航せよという命令のもと、スペイン領西インド諸島に派遣された。交戦してはならず、ただ威嚇するだけという状態で無為に時を過ごすうちに、4,000人の艦隊員のほとんどが熱病に倒れ、戦艦は破損し、敵の嘲笑を受け、遂にはホージャー自身も失意のうちに命を落したのであった。



ヴァーノン提督の一行が、スペイン艦隊との戦いの余韻に浸り、勝利の乾杯を挙げているところに、「悲しい表情の亡霊の一団」(12) が現れる。

青白い月の光が射す中
  毅然としたホージャー提督の亡霊に呼び集められて
顔青ざめた部下たちが
  海底の墓場から立ち上がる
三千の部下なる亡霊たちを従えて
  月に照らされた海上を ホージャーは
帆はためくバーフォード号にむかって来て
  呻くようにヴァーノンを呼び止めた  (17-24)

ホージャーが無念の敗北の顛末を語り始める。

二十隻の戦艦を従えて
  わしは このスペインの町を威嚇した
交戦すべからず という命令なくば
  [敵に]その町の富を防御(まも)る手段(て)は無かったはず
ああ この逆巻く海原に
  受けし命令など吐き捨てて
高慢なるスペインの鼻をへし折らんとする
  わが心中の熱き想いに従えばよかったのだ  (41-48)

「恐るるべき抵抗など何も無かった/勇敢で幸運なるヴァーノンよ/そなたが六隻の戦艦で成し遂げしことを/わしが二十隻の戦艦で為しさえしておれば」 (49-52)と、戦わずして敗北した無念を繰り返す。

立派に任務(つとめ)を果たしたそなた等を称賛こそすれ
  その栄光に不満を述べているのではない
ただ われ等が悲運の物語を心に留めて
  ホージャーが受けし不当な命令を祖国の民に伝えてほしい
この苛酷なる気候の地に送り込まれて
  数多くの勇者が熱病に苦しみ悶えて倒れていった
戦闘の中で名誉ある死を遂げたのではなくて
  無為なるうちに命を落していったという真実(まこと)を伝えてほしい  (65-72)

ウォルポールは、ホージャー提督が無念の死を遂げた1726年4月の時点で「初代イギリス首相」(1721-42)として、政権内ライバルを失脚させたり、トーリーや反政府派にジャコバイトのレッテルを貼って野党活動を牽制することで議会を掌握し続けていた。勃興期のジャーナリズムに対しては言論統制を布き、買収や言論弾圧を盛んに行った。1737年には演劇検閲法(Licensing Act)を制定して言論統制を演劇に拡大し、ヘンリー・フィールディングらの反政府演劇を弾圧した。「愛国心ある輩(ともがら)に再会するとき/わが破滅の復讐/祖国イングランドが舐めた屈辱の復讐を 忘れるなかれ」(86-88) ー この詩を締める最後の3行は、渋々スペインとの戦いを了承した宰相ウォルポールへの勇気あるメッセージだったのではないか。

テニスンの "The Charge of the Light Brigade" (1854) は、クリミア戦争におけるイギリスの軽騎兵たちの死をも恐れぬ突撃物語である。

隊の右に 砲弾炸裂
隊の左に 砲弾炸裂
隊の前にも 砲弾炸裂
  一斉射撃にとどろく轟音
銃弾を雨霰と浴びながら
ひるむことなく 進み行く
死神の顎へと
地獄の口へと
  進み行くは六百騎  (st. 3)
………………………………………….
その栄光は消えることなし
ああ 勇猛果敢な突撃に
  世間はあっと驚いた
讃えよ その突撃を
讃えよ 軽騎兵隊を
  誉れも高き六百騎  (st.6)

1850年にワーズワースの後継者として桂冠詩人になっていたテニスンの、実にその任務遂行の成功例となった作品である。イギリス人の心に深く刻まれた名作バラッド詩を残した二人であったが、体制派に組したテニスンと、反体制派として怯まなかったグラヴァー、二人の作品を読むにつけ、今更ながらバラッドのダイナミズムを感じる次第である。

注1:  初代チャタム伯爵ウィリアム・ピット。1735年にホイッグ党の庶民院議員に当選し、政界入り。ロバート・ウォルポール首相の「軟弱外交」を批判するタカ派若手政治家として頭角を現し、後に首相(在任:1766-68)。
注2:    1739年に起こったイギリスとスペインの海上権争覇の戦争であり、スペイン当局に拿捕されて片耳を切り落とされたという商船船長ロバート・ジェンキンスの名に由来する。
注3:    Porto-Bello. パナマ地峡の北部、1597年建設、スペイン・インディアス艦隊の寄港地。
注4:    Crimean War. 1853年から56年にかけてロシア帝国と、オスマン帝国・フランス・イギリス・サルデーニャの連合軍との間で行われた戦争。戦闘地域はドナウ川周辺、クリミア半島、さらにはカムチャツカ半島にまで及んだ、近代史上稀にみる大規模な戦争であった。連合軍がロシア帝国に勝利してパリ条約が締結され、これによって、ロシアが進めていた南下政策は頓挫した。

<ひとくちアカデミック情報>

ヘンリー・フィールディング:Henry Fielding, 1707-54. 18世紀イギリスの劇作家、小説家、治安判事。小説『トム・ジョウンズ』(Tom Jones, 1749)が代表作で、「イギリス小説の父」と呼ばれる。初め、風刺の効いた芝居を書いて人気を博していたが、フィールディングらの政権批判の風刺劇を取り締まるために、1737年に上演を制限する演劇検閲法(Licensing Act)が発布され、この影響で演劇の文学的重要性が弱まり、代わりに小説がより注目されるようになった。フィールディングは弁護士に転身し、その傍ら、小説を書き始めた。また、新聞の編集長になり、当時のウォルポール内閣を批判した。

<原詩の箱_Glover>


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<訳詩の箱_Glover>


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 <訳詩の箱_Tennyson>
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