第133話 ゴシック・ユーモア
リチャード・ガーネット 『追剥の亡霊』(Richard Garnett, “The Highwayman’s Ghost”, 1893)
リチャード・ガーネット 『追剥の亡霊』(Richard Garnett, “The Highwayman’s Ghost”, 1893)
私は在職中、英文学科に入学して来た学生の必読書100冊の中に必ず河盛好蔵の『エスプリとユーモア』(岩波新書, 1969)を推薦していた。イギリス人のユーモアとは何であるかを知っておかなくては英文学を理解できないと確信していたからである。今、この名著の内容を繰り返すことはしないが、フランス人の機知に富んだ「エスプリ」(’esprit’)に対するユーモア (‘humour’) は、「バラッド」を理解してゆく上でも大切な感覚として身につけておくべきである。
すでにこのサイトでも、数々のユーモア作品を紹介してきた。伝承バラッド『さあ立って 戸口を閉めて』("Get up and bar the door", Child 275A; 第9話参照)では、冬の冷たいすきま風が吹き込んでくる時期、どちらが立って戸口を閉めるかを巡ってなされる「犬も食わない夫婦喧嘩」がユーモラスにうたわれるし、「わしには悪妻がいて それがこの世の悩みの種」という農夫から譲り受けた「古女房」を連れ帰ったはよいが、これが「狂った熊のように大暴れ」し、「女房ってやつに繋がれた男こそ哀れ」(43)、「結婚しなけりゃ 地獄も天国」(47)と思い知って返しに行った悪魔の最後のセリフ「わしは 人生のほとんどを悪魔で通ってきたが/.../女房というものに出会って初めて 地獄を知った」(53-55)と終わるロバート・バーンズ (Robert Burns, 1759-96)の「ケリバーン河畔(かはん)の農夫」(“The Carle of Kellyburn Braes”, 1794)は、伝承『農夫の悪妻』(“The Farmer’s Curst Wife", Child 278A;第11話参照)から生まれたバラッド詩である。伝承の方のサタンの最後のセリフは「「今までさんざ 人間(ひと)を苦しめる役は演じたが/おまえさんの女房から苦しめられるほどの役はなかった」である。
ユーモアに負けず劣らずイギリス人がこよなく愛するものに「亡霊譚」があると言っても過言ではあるまい。何しろ伝承バラッドでは、死者は「肉体を持った存在」(‘corporeal being’)としての堂々たる市民権1 を持っていたのである。海に出かけて消息を絶った三人の息子たちが戻ってきて、「今夜は家中お祝いよ/息子が元気に帰ってきたの」と母親を喜ばせたが、夜明けと共に三人は「土のお墓」に戻ってゆくとうたう『アッシャーズ・ウェルの女』(“The Wife of Usher’s Well”, Child 79A; 第19話参照) その他、枚挙に暇(いとま)がない。詩人たちはその点にも惹かれて数多くのゴシック・バラッド詩を残してきた。’humour’とは元々、血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁の4種類の体液を表していたように、「ユーモア」は「ゴシック」と相まって、イギリス人の体内を流れる「体液」と言えるのではないか。そうであれば、今回のタイトルとした「ゴシック・ユーモア」という造語も許容されるだろうか。
多くのゴシック・バラッドが概ね恐怖と死をテーマとした重い気分を後に残すが、ガーネットの『追剥の亡霊』は土壇場で(いや、最初から)’comic relief’が効いて解放された気分になる。真夜中零時、死者が蘇る時刻、6年前に鉄の鎖に縛られて柩(ひつぎ)に入れられ、土中に埋められていた追剝(おいはぎ)(=語り手)が立ち上がって、再びこの世に舞い戻る。
十二時 霧深い真夜中の刻(とき)
十二時 霧深い真夜中の刻(とき)
柩(ひつぎ)に差し込む微(かす)かな光を頼り
鉄の鎖に縛られた六年を経て
再びこの地に立つ時がきた
これにてご免 錆びた手鎖(てじょう)から
干からびた手首を抜くのは容易(たやす)い
古びた鎖の耳障りな音 朽ちた柩(ひつぎ)の軋(きし)み
ああ カタカタと骨の騒がしいことよ (1-8)
’So — by your leave!’—「これにてご免」と、訳者(宮原牧子氏)の口調も快調である。蘇った追剝は、かつて勇ましく乗り回していた愛馬「ベス」はどうしているかと想いを馳せる。
ああ 褐色のベスに鞭を入れた日々よ
奴らは愛しいお前をどこへ連れ去った
馭者の鞭に打たれて泣いてはいないか
石炭商の荷車を引かされてはいないか (13-16)
「褐色のベス」(’Bess the brown’) —18世紀イギリスの名高い追剝、リチャード・”ディック"・ターピン(Richard "Dick" Turpin, 1705年9月21日洗礼 - 1739年4月7日)の愛馬の名前ではないか! W・ハリソン・エインズワース (W. Harrison Ainsworth)が小説Rookwood (1834)で美化し、挿入されたバラッド詩”Black Bess” で「俺の愛しいブラック・ベス」(‘my bonny Black Bess’)と、その栄光をDickに称えさせたあのベスではないか!しからば、今回、6年の眠りから覚めたというガーネットの語り手は、歴史的には150年余の眠りから覚めたという計算になる。(この計算の狂いが、真面目な名馬礼賛から脱線していることを読者に伝える!)
愛馬もいなくなり、「俺様が歩(かち)とは何たる屈辱/だが致し方ない」とテクテク歩く。
見ろ 足元の霧は払われ
この荒野に広く遠く
朧げな月明かりが降り注ぐ (18-20)
汚れた肉体が朽ち果てて、清らかな(詩人のような)心に生まれ変わったか。
「砂塵が舞い上がる長い道」(21)の向こうに北部郵便馬車 (‘The Northern mail’)がこちらに向かって来る。イングランド北東部を走る郵便馬車である。かつては俺様が餌食にしていた馭者のアンソニーに騙されてこの俺様を返り討ちの血祭りにしやがった奴への復讐だ!
さあ急げフレッド 決して抜かるな
今だ 馬車を捕らえろ (27-28)
「フレッド」とは誰? 自らをアルフレッド大王 (Alfred the Great, 849?-899; 中世イングランドWessex王, 871-899) に例えて奮い立たせているか?何しろ彼は死後、中世の伝説的英雄・義賊ロビン・フッドに負けず劣らず、18世紀から19世紀にかけての小説、詩、演劇界の英雄で、20世紀に入っても映画・テレビ界に人気が絶えないのである。
突然の襲撃に馭者は落馬して死ぬ。
気をつけろ だがしかし亡霊を
マスケット銃で撃って何になる (31-32)
郵便馬車には追剝を警戒する監視役が「マスケット銃」(=ブランダバス;ラッパ銃)で武装し、深紅色と金色の郵便局員の服装で乗車し、ハイウェイマンと呼ばれた盗賊から郵便物を守っていたのである。確かに、亡霊を撃っても意味は無いかと、奇妙に納得させられるセリフである。
勢いよく追い剥ぎに及んだ最後のセリフが続く。
車輪を砕け 馬車を反覆(かえ)せ
積荷も貴婦人もお偉方も蜂の巣だ
しめた戦利品だ 奪いとれ
ああ だが何てこった そいつを収める懐が無い (33-36)
亡霊を撃っても意味は無いと豪語したが、最後に彼は天に向かって唾を吐いたか。戦利品を奪っても、それを収める懐が無いのでは、持ち帰ることも出来ない!いや、仮に持ち帰れたとしても、彼の戻る場所は土中の棺の中で、使い道は無さそうである。
これは修辞学で言うところの ‘bathos’、一般的には、高い格調から滑稽な調子へ急転落する表現法で、スピーチ、ドラマなどにおける計算された表現法に当たるもので、詩人ガーネットがバラッドの持つ一つの重要な修辞法を心得ている好例と言えよう。
注1: 比喩表現として、世間からの公認を比喩的に「市民権」と呼び、特殊または希少なものが広く容認されて一般化することを「市民権を得る」というように使用される。(Wikipedia)
<ひとくちアカデミック情報>
W・ハリソン・エインズワース:W. Harrison Ainsworth, 1805-82. イングランドの詩人・小説家。小説Rookwood 中に登場する”Black Bess” はスタンザで区切られてはおらず、全56行が通しで貼り付けられているが、後の詩集に収められた際には全14スタンザで、各スタンザ4行でaabbと韻を踏むバラッド的韻律になっている。そして目を惹くのは、’The love that I bear to my bonny Black Bess’ (st. 1)のように全てのスタンザ4行目に”Black Bess”という言葉が繰り返されて、最初から最後まで「ブラック・ベス」礼賛一色で、ガーネットのような「ゴシック・ユーモア」は皆無である。
<訳詩の箱_1:Garnett>
<原詩の箱_2:Ainsworth>
<訳詩の箱_2:Ainsworth>
{tab=歌の箱:The Completely Made-Up Adventures of Dick Turpin}