第125話 桂冠詩人のバラッド詩
ジョン・ベッチェマン「準大尉の恋歌」(John Betjeman, “A Subaltern’s Love-song”, 1941)
「桂冠詩人」は英語で’poet laureate’というが、古代ギリシャ・ローマ時代には体育競技と同様に、詩作の勝利者に詩神アポロンゆかりの月桂樹の枝葉で編んだ冠が授けられたことに由来する。中世のイタリアでは、ダンテやペトラルカ、タッソが一流の詩人として月桂冠を戴いている。イギリスでは、17世紀に王室の慶弔の際に詩を作る桂冠詩人の役職が設けられ現在に至っている。
アンドリュー・モーション(Andrew Motion, b. 1952; P-L-1999-2009)の時より10年間の任期制となったが、それまでは終身称号として与えられるものであった。パースィのReliques (1765)以降の11人の詩人たちの評価はまちまちである。著名な詩人トマス・グレイ (Thomas Gray, 1716-71)が辞退した後を受けて名誉ある地位を得たホワイトヘッド (William Whitehead, b. 1715; P-L- 1757-85)のような詩人もいれば、 20世紀の歴史家に「オースティン[アルフレッド・オースティン (Alfred Austin, b.1835; P-L-1892-1913]を除いて、イギリス史上最悪の桂冠詩人」と呼ばしめたヘンリー・ジェイムズ・パイ(Henry James Pye, b. 1745; P-L-1790-1813)など様々であったが、王家から称号を与えられている以上、国家を様々な点で讃えることが重要であった。1850年にワーズワース(William Wordsworth, b. 1770; P-L-1843-50)の後継者となったテニスン(Alfred Tennyson,b. 1809; P-L-1850-92年)が、59年から64年にかけてアーサー王伝説に取材した『国王牧歌』(Idylls of the King)を発表したことなどはその代表的な例である。我田引水の謗りを恐れず付け加えるならば、民衆文化の代表的な例としての伝承バラッドを讃え、自らバラッド詩を書き残すこともその一つであったのではないかと思える。
ワーズワースの前任サウジー (Robert Southey, b. 1774; P-L-1813-43)は19篇のバラッド詩を残しているが、18世紀詩の硬直を解き放つのに大きな影響を与えたとして評価されている『ブレンハイムの戦い』(”The Battle of Blenheim” , 1798;
第110話参照)は、18世紀の初めにバイエルン選帝侯国(ドイツ)・フランス連合軍を破ったイングランドの勝利をうたうものでもあった。桂冠詩人になる前であるが、ワーズワースがパースィの
Reliquesのお陰で英詩が復活したと述べていることは、すでに何度も触れている通りである。ワーズワースの後任テニスンについてはすでに上で触れているが、就任直後の54年には、クリミア戦争中のバラクラヴァの戦いでの軽騎兵の勇敢さを讃えた「軽騎兵の突撃」(‘The Charge of the Light Brigade’ 1854)を発表している。デイ=ルイス(C. Day-Lewis, b. 1904; P-L-1967-72)は、1964-65年にハーバード大学の
’The Charles Eliot Norton Lectures’に招かれて、現代人の分裂した自我の再統合 (‘reintegration’)を伝承バラッドに内在する「抒情的衝動」 (‘lyric impulse’)から学ぶべきと説いた。
今回取り上げる詩人は、デイ=ルイスの後任ベッチェマン (John Betjeman, b. 1906; P-L-1972-84)である。彼の詩が人気を博し、都会的で軽みがある点はブロードサイド・バラッドの伝統を踏まえているからであろう。しかしそれは、「イギリスの伝統と今」をベースにしていることを忘れてはならない。詩は、伝承バラッド十八番
(おはこ)の次のような’abrupt opening’で始まる。
ミス・J・ハンター・ダン ミス・J・ハンター・ダン
オールダーショット訓練基地の陽(ひ)を浴びてこんがり日焼けしたハンター・ダン
アフタヌーンティーのあとのテニスの試合
二人だけのシングルスの真剣勝負 (1-4)
男女二人がテニスの試合をしていると始まるが、二人がどういう関係かは皆目分からない。しかし、地名、紅茶を飲む習慣、スポーツの名前から、典型的なイギリスの情景は明らかに伝わってくる。「オールダーショット訓練基地」(原語は ‘Aldershot’)は、クリミア戦争真っ只中の1854年にイギリス陸軍にとって初めての常設訓練キャンプとして設立された駐屯地であり、ヴィクトリア女王と夫のアルバート公はこれを「ギャリソン・タウン」(garrison town, 守備隊駐屯都市)として発展させ、敷地内に「ロイヤル・パビリオン」を建設、1897年のヴィクトリア女王のダイアモンド・ジュビリー(在位60周年)を祝うため、英国やその植民地の兵士25,000人のほかにもカナダ、インド、アフリカ、オーストラリア、ニュージーランドから兵士が集められて、女王がこれを上覧された場所である。その基地所属の「準大尉」が、身分違いの女の子の父親の別荘でアフタヌーンティーの後、テニスの試合をして遊んでいるというわけである。「アフタヌーンティー」はヴィクトリア朝時代の中頃に貴族の間で起こった習慣で、午前10時頃の遅めの朝食と、夜遅くまでの観劇や音楽界などの後のディナーの時間(午後10時や11時)の繋ぎとして午後4時頃に紅茶と軽食をいただくという習慣である。
ラブ・サーティ(0-30) ラブ・フォーティ(0-40) ああ 負ける喜び
ツバメのスピード 少年のしなやかさ
最高の注意深さと大胆さで あなたの楽勝
ジョーン・ハンター・ダン あなたの魅力に負ける僕 (5-8)
テニスのゲームは4ポイント取って1ゲーム先行することになるのだが、ゼロ・ポイントを’love’、1ポイントを’fifteen’、2ポイントを’thirty’、3ポイントを’forty’と数える。紀元前まで遡るテニスの今日の原型は11世紀のフランスを発祥の地と考えられているが、その後テニスはイギリスで発展を続け、競技目的のスポーツとして世界中に普及していった。1877年に第1回ウィンブルドン選手権が開催されたが、今日四大大会(グランドスラム)の一つながら’The Championships’と言えばウィンブルドン選手権をさす。英語でカウントされる場合は、世界のどの国においてもこの ’love’→’fifteen’→’thirty’→’forty’と進行する不思議な数え方が踏襲されているのである。大英帝国の面目躍如たるところか?! 男は恐らくテニスのような高級なスポーツはしたこともなく、ゼロを ‘love’とカウントされる響きにうっとりと、「負ける喜び」に浸っていたようである。
試合を終えて別荘に戻り、この後の「ゴルフ・クラブでの舞踏会」までのひと時を、シャワー浴び、「ジンライムで喉を潤す」。’a lime-juice and gin’の発祥にも諸説あるが、一説には1890年代にイギリス軍のギムレット卿という軍医によって提案されたとする、イギリスで最もポピュラーなカクテルである。「イブニング・タイをしめるのに悪戦苦闘」(19)する男には、これからゴルフ・クラブで催される舞踏会が待っている。ゴルフの起源についても諸説あるところ、近代スポーツとしてのゴルフがスコットランドで始まったことに異論は無い。1860年に世界初のゴルフの選手権大会である全英オープンがスコットランド西海岸地域に位置するプレストウィック・ゴルフ・クラブ(Prestwick Golf Club)で始まった。以来テニスと同様、メジャーの中で最も歴史と権威のあるトーナメントとして、英語での正式名称 が"The Open Championship“で通っている。二人は彼女の愛車ヒルマンで出かけるが、「ヒルマン」(Hillman)は1907年から31年代まで活動していたイギリスの自動車メーカーの車。到着したクラブハウスの駐車場にはローバー (Rovers)やオースティン(Austins)と名車がずらり、いずれもイギリスを代表する車である。
狭い車の密室の天井
右側には 僕の選んだ女
彼女の 仰向く鼻と漏れる喘(あえ)ぎ声
スカーフの匂い 無言の二人
舞踏会場に行ったら最後 二度とチャンスは巡って来ない
二人は 真夜中0時40分まで車の中だった
かくして僕は ミス・ジョーン・ハンター・ダンの婚約者 (38-44)
二人は車を降りなかった。「舞踏会場に行ったら最後 二度とチャンスは巡って来ない」とは、男の本心に違いない。二人の出会いの経緯は不明だが、舞踏会場に一歩踏み込めば、女はもはや彼一人のものではなくなるだろうし、二人だけの試合ではどんなに惨めに負けても他の誰に見られるわけでもなかったが、大勢の前で恐らくちゃんと踊ることも出来ない彼が、それを喜びとするわけにはゆくまい。車中の描写は、カーセックスをサラリと描いているに違いない。従って最後の1行を「かくして僕は ミス・ジョーン・ハンター・ダンの婚約者」と訳したが、原文 (‘And now I’m engaged to Miss Joan Hunter Dunn.‘) を直訳すれば一応こうなるものの、文字通りの「婚約者」になったわけでは毛頭なくて、これは意図的な誤訳、テニスの試合でも勝てず、身分も違いすぎる男の内心の空想的喜びの表現であると解釈したい。
この詩の初出は1941年2月の文芸誌Horizon (3)であり、第二次世界大戦の終結の年1945年1月に出版された詩集 New Bats in Old Belfries: Poems に収録された。いずれも戦時下であったことをまるで感じさせない出来栄えであるが、それはひとえに、この作品が最も伝統的な’British humour’に貫かれているからではないか。桂冠詩人としての面目躍如たるものであった。
ひとくちアカデミック情報 ’The Charles Eliot Norton Lectures’: 正式には’The Charles Eliot Norton Professorship of Poetry at Harvard University ’と称し、1925年に始まって、音楽、絵画、建築等々の芸術分野を含む広い意味での「詩」(‘poetry’)について、国内外の著名人を招いて一応年間6回程度の特別講義をしてもらう企画である。その多くは後にハーバード大学出版局によって刊行されている。筆者の特別な関心から、その幾つかを列記してみると(講義年度と出版時の書名)、
1932–33 T. S. Eliot The Use of Poetry and the Use of Criticism
1948–49 C. M. Bowra The Romantic Imagination
1953–54 Herbert Read Icon and Idea
1955–56 Edwin Muir The Estate of Poetry
1964–65 Cecil Day-Lewis The Lyric Impulse
1969–70 Lionel Trilling Sincerity and Authenticity
1977–78 Frank Kermode The Genesis of Secrecy: On the Interpretation of Narrative
1979–80 Helen Gardner In Defence of the Imagination
1987–88 Harold Bloom Ruin the Sacred Truths: Poetry and Belief from the Bible to the Present
{tab=原詩の箱}
画面をクリックすると作品が表示されます。
{tab=訳詩の箱}
画面をクリックすると作品が表示されます。
{tab=朗読の箱}