第119話 無機質殺人
ウィリアム・プルーマー『丘陵(ダウンズ)殺害事件』 (William Plomer, “The Murder on the Downs”, 1936)
ウィリアム・プルーマーは、1903年に南仏ピーターズバーグ(現在のポロクワネ)に生まれ、父親が植民地文官であったことから、子供時分には家族でイングランドと南仏の間をしょっちゅう行き来していた。1926年9月から29年3月まで、新聞社の特派員として日本に滞在、その後、韓国、中国、ソ連、ポーランド、ドイツ、ベルギーと旅を続け、ロンドンに戻ってブルームズベリーに居を構え、ウルフ (Virginia Woolf, 1882-1941) らと親交を深めていった。後年彼は自らを「アフリカ・アジア系英国人」(“Anglo-African-Asian”)と呼んでいる。’Plomer’の苗字を家族は普通に’plʌ́mər’と発音していたが、彼はこれを’rumour’と韻を踏む’prúːmər’と発音することにこだわった。
記者として体験した様々な国での見聞がプルーマーをして優れたブロードサイド・バラッドの作者としている気がする。社会的事件が、淡々とした写実的描写の報告書のように扱われる。彼は自身の詩作について、「様々な時と場所で出会う人に対する関心が私の詩の主要な原動力であった。そのことから自ずと、私の作品は物語的でドラマチックな傾向になり、バラッド形式を採用し、奇怪なものとありふれたもの、無力で不条理なものと悲劇的ないし不吉なものの混合ないし並列に関心を抱くのであった」と述べており、40年代から50年代に ‘a treasure of Plomer’s’ と呼ばれる、都会を舞台とした鋭い諷刺に満ちた一連のバラッド詩作品群が生まれた。
サセックス丘陵地帯 |
「ダウンズ」とはイギリス東南部の白亜層の丘陵地帯の呼称で、イングランド南部の典型的な風景である。牛が放牧され、所々に掘っ立て小屋が見える。二人の人物、バートとジェニファーが、清々しいサセックス(英国東南部の旧州)の朝、そのような丘を越え、小さな村を通ってゆく。通り過ぎる教会を、「民衆のアヘンを/いつでも打ち込む用意のある/皮下注射針のような尖塔をした教会」(“the hypodermic steeple / Ever ready to inject / The opium of the people”)と表現しているが、これはマルクス(Karl Heinrich Marx 1818-83)の有名な言葉「宗教は民衆のアヘンである」(“Die Religion ... ist das Opium des Volkes”)を捩っており、新聞記者魂を彷彿させる表現である。イバラに蜘蛛の巣が張り、雲雀がうたっている・・・、一見のどかな風景が続く。そんな中で、男が「ごらん 手が汗ばんでいる」(17)と言う。この何気ない、しかし唐突なひと言に、「女は男の手の平に唇を当て」(18)ただけで、あとは無言のまま、二人は谷間を見下ろす小道を歩き続ける。だが、続くスタンザはまるで漢詩絶句で言う「転句」、音楽で言う「転調」(modulation)、それまでは舞台の袖を歩いていた二人を迎えて、丘陵(ダウンズ)の舞台の幕が大きく開く。
Over the downs the wind unveiled
That ancient monument the sun,
And a perfect morning
Had begun. (21-24)
一陣の風が丘陵(ダウンズ)を吹き抜けて
古代遺跡たる日輪が出現し
完璧な朝(あした)が
始まった
日輪の出現が「完璧な朝(あした)」を眼前に提示して、太古から不変の圧倒的な自然を舞台に卑小な人間のパントマイムが演出されるのである。矮小化されて完結しない人間の振る舞いは、一つ一つのスタンザ内では完結しない、<ピリオドで閉じない>という演出方式で表現される。
But summer lightning like an omen
Carried on a silent dance
On his heart’s horizon, as he
Gave a glance
At the face beside him, and she turned
Dissolving in his frank blue eyes
All her hope, like aspirin.
On that breeding-place of lies
His forehead, too, she laid her lips. (25-33; イタリック、筆者)
男は「チラと横目を走らせて/横の女の顔を見る」、「嘘が育まれる/男の額に」女は唇を当てる。その「愛」は感応し合う高尚な魂の交感ではなくて、アスピリン(解熱剤)のように溶けてゆく類のもの。二人の姿は、陽気な朝に目覚めた蛇に、柔らかくて肉太なキノコに目撃され、「丘の向こうの夜明けの海が/・・・/無数の目と共謀して」男を見つめて「目を輝かせて笑っている」。男は隠し持っていたストッキングを、素早く女の首に巻きつける。
「ああ きっとこうなると分かっていたわ」
こう言ってジェニファーは
穏やかに だらりとなって
男が首を絞める間じゅう 微笑み続けた
雲ひとつ無い空のもと
波ひとつ無い海原が静かに横たわっている
そして シダの茂みを寝床に
殺された女が横たわっている (61-68)
無反応な男の脇で、「きっとこうなると分かっていた」というセリフだけが不気味な余韻を残して、女は大きな自然に包まれて横たわっている。なぜこの殺人事件が起こったのかを説明しない不気味さは、人間社会の多くの不可解な出来事を見事に伝えている。事件を伝える報道等は一応事情を説明するが、真相は必ずしもわからないことを、プルーマーは自らの記者体験からよくわかっていただろう。しかしそれ以上に、愛するにせよ、殺すにせよ、無機質な不気味さを漂わせてきた現代社会における人間の営みを、プルーマーは深く感じ取っていたのではないか。この作品を完成した当初、この無機質な暴力行為は丸で自分ではなくて別の誰かが書いたものではないかという不思議な感情を抱いたと書き残しているが、1967年から72年まで桂冠詩人を務めたセシル・デイ=ルイスは、これこそがオーデン(第102話参照)らにも共通する現代のバラッド詩人たちに特徴的な感受性であると指摘している。伝承バラッドの世界で展開した多くの愛と殺戮は、一見その冷徹な語り口の裏に人間の生々しい生き様をよく伝えるものばかりであった。翻って、現代詩人たちの描く「無慈悲で、残忍で、風刺的な」調子には、伝承にあった「人間味」は消えて、現代的暴力の奥に潜む人間存在の卑小さに対するある種の共鳴がアンビバレントな感受性となって、作品化された一つ一つの事例を「焼灼」(='to cauterise’=感染を防ぐために傷口を焼くこと、特に,薬品・電気で病組織を焼く外科的治療法)するという態度を取らせている、と言うのである。(詳しくは下記「アカデミック情報」の引用文を参照。)
ひとくちアカデミック情報:
セシル・デイ=ルイス: C. Day-Lewis, 1904-72. 彼は代表作The Lyric Impulse (Cambridge, MA, 1965)で次のように述べている:The impersonality of the traditional ballad, its refusal to take sides, has been replaced by a satirical or moralising tone, at times by a cruelty quite different from the dispassionate treatment of violence which the anonymous makers afford us. There is something merciless about William Plomer’s ballads, such as ‘Slightly Foxed’, or ‘The Widow’s Plot’, or ‘Mews Flat Mona’, or ‘The Self-Made Blonde’, as there is in Auden’s ‘Miss Gee’ and even in ‘Victor’. This, again, is inevitable; for the modern sensibility, shrinking from the violent or sordid events which the traditional ballad took in its stride, yet at the same time covertly fascinated by them, is impelled to examine the springs of violence in itself, and in doing so may become infected by them: it is the need to cauterise the infected part, I suggest, that produces this rather heartless, brutal, satirical tone we notice in many modern ballads. (74-75)
コメント
この種の殺人の薄気味悪さを、余すところなく伝えていますね。
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