第118 話 物語る自然

ウィリアム・ワーズワス『山査子(さんざし)』 (William Wordsworth, “The Thorn” , 1798)

 妹ドロシーとの湖畔の散歩の中からワーズワースの名作"The Daffodils" (1802)は生まれたが、今回紹介する"The Thorn"も、1797年からの一年間、サマセット州ホルフォード村のアルフォックスデンに住んでいた頃の兄妹がカントック丘陵に散歩に出かけた帰り道に、ひどい霰が降る嵐の中で見かけた「ねじれた山査子」(‘a stunted thorn’)に強い詩的印象を受けて生まれた。この時のことは作品中で、語り手が初めてマーサに会った次の場面に書き込まれている。

嵐が来て 膝から上は
何も見えなくなってしまいました

霧から雨 雨から嵐へ
物陰ひとつ 雨宿りする囲いひとつなく
そのうち風が それは
ほんとうに十倍にも強く吹きだしました
見渡すと 突き出た岩場が 確かに見えたと思い
そこで 降りしきる雨のなかを
岩場に身を寄せようと
のめらんばかりに走ってゆきました
そしたら 紛(まぎ)れもなくそこには
突き出た岩場ではなくて
ひとりの女が 地面にうずくまっていたのです  (XVII-XVIII, 186-98)

コールリッジと共同出版したLyrical Ballads (1798)の再版 (1801)の「序文」でワーズワースは、「これら諸詩篇において提起した主たる目的は、日常普通の生活から事件や情況を選びだし、それらを、全体を通じてできるかぎり人々が実際に話す言葉から選んだ用語で述べあるいは描き、と同時に、それらの事件や情況に、想像力によるある種の照明をあてることによって、ありきたりの事柄が異常のすがたをもって読者の心にうつるようにするということである。」(前川俊一訳、研究社「英米文芸論双書4」)と述べているが、ワーズワースはドロシーが記録した「ねじれた山査子」と「小さな沼池(ぬまち)」(”a little muddy pond”, 31)から想像力を膨らませて、お馴染みの伝承バラッドのテーマを23スタンザ253行の長編バラッド詩に仕立て上げたのである。時折質問者の問いかけに答えるという形で話を進めるが(これも実は自問自答)、ほとんどは語り手のモノローグという雰囲気である。余所者の語り手はこの村にやってきて初めてマーサ・レイという名の女の存在を知る。その女がスティーブン・ヒルという男と付き合っていて、結婚の日取りまで決まっていながら、男は別の女と契りを結んでいた。これは一応「事実」である。そして、この事件をめぐって「うわさ」がたつ。捨てられたマーサは悲しみのあまり気が触れてしまったというのである。

うわさでは それからまる六月(むつき)も経(た)ったころ
まだ夏の葉が青々としていたころに
マーサは 山の頂にゆきだしたのです
そしてよく そこにいるのが見かけられました
お腹(なか)に赤子がいたといいます
もはや 誰の目にも明らかでした
子供が宿って マーサは気がふれました
それでも 耐えがたい陣痛に
しばしば 正気にかえって苦しみました
あの血も涙もない父親! 彼こそ死ぬがよかったにと
ああ 何万回もわたしは思ってきました (XIII, 133-43)

その赤子が「はたして生まれたのか どうなのか」(159)、誰も本当のところは知らないのだと語り手は正直に言う。ただこの時分マーサがしばしば山に登っていたことは確かによく覚えている人もいるという。事実自分もあの嵐の夜に女に出会った、そして女が「ああ かわいそうに ああ かわいそうに」と泣く声を聞いた。

「でも その山査子は その池は
その苔むした小塚は 女と何の関わりが
その小さな池の小波(さざなみ)たてるそよ吹く風は
女と何の関わりがあるのでしょう」
わかりませんが ある人は
女が赤子をその木に吊るした と言っています
またある人は すぐその先の池で
(おぼ)れ死なせた と言っています
しかし みんなが口をそろえて言うことには
あの美しい苔むした小塚の下に
赤子は埋められたのです  (XX, 210-20)

語り手も村人も、みんな女の悲劇を想像しているのである。「見るからに老いさらばえた一本の山査子」(cf. 1)と、その左手三ヤード先に「長さ三フィート幅二フィート」の小さな沼地(cf. 29-33)、そしてドロシーの日記には無いが、山査子のすぐ傍の「苔むした小塚(こづか)」(37)が詩人が実際に目撃した事実(原体験)である。伝承バラッドを熟知していたワーズワースは、直ちに、結婚を誓いながら恋人が別の女と教会に向かう姿を見て死んでいったマーガレットを(”Fair Margaret and Sweet William", Child 74; 第1話参照)、あるいは、山査子のもとに坐って赤子を産み、それから、小さなナイフを取り出して赤子を殺し、月明かりのもとで墓を掘って、その子を埋めた”The Cruel Mother” (Child 20; 第41話参照)を、あるいはまた、ワーズワースが高く評価したパースィーのReliuesに収録されていたティッケルの『ルーシーとコリン』(Thomas Tickell, "Lucy and Colin"; 第103話参照)を念頭に、詩的想像力を展開したか。

この詩はバラッド・スタンザにもなっていないし、脚韻もバラッドのものではない。バラッド的な意味での最大の特徴は言葉の繰り返しであろう。ある場合には、"A cruel, cruel fire, they say, / Into her bones was sent:" (XII, 129-30)のように一つの単語の繰り返し、"It stands erect, and like a stone / With lichens it is overgrown. / Like rock or stone, it is o’ergrown / With lichens to the very top,”(I-II, 10-13)のように行を跨いで複数行が繰り返される場合も多く、また、11行からなる一つのスタンザが丸々「自問自答」で繰り返される場合 (VII→VIII)もある。中でも際立つのは、聞こえてきたという「ああ かわいそうに ああ かわいそうに」という女の泣き声である。四つのスタンザ(VI, VII, XIX, XXIII)に渡って繰り返される。詩人は”The Thorn”に付けた注で、繰り返される言葉について、次のように弁明している。

「同じ言葉を繰り返すのはトウトロジー('tautology', 無駄な同義語反復)と考えるものが多いかも知れないが、決してそうではない。詩は情熱であり、感情の物語である。誰でも経験することであるが、熱情的な気持ちを伝えようとする時、言葉が足りないという、何某かの力不足の感を免れないのである。その葛藤の中で、人は同じ、あるいは類似の、言葉を繰り返す。時としてそれが最高の美を生み出すのは、言葉を単に熱情の象徴ではなく、それ自身豊かで有益な熱情の一部分そのものであるべき言葉というものに詩人の精神が関心を抱くからである。」

 ワーズワースはまた「序文」の中で、「詩は力強い感情が自ずからあふれ出たものであり、それは平静の際に想いおこした感情にその起源を発する」(”poetry is the spontaneous overflow of powerful feelings; it takes its origin from emotion recollected in tranquillity”)」という有名な言葉を記しているが、嵐の山中で出くわした一本の山査子と伝承バラッドの中の捨てられた女の悲劇が詩人の想像力の中でシンクロナイズし、詩が生まれた。繰り返されるマーサの泣き声もバンシー(117話参照)に共鳴して、時経てイエイツのマギーの「悲しみの歌」に伝導していったのである。

 

ひとくちアカデミック情報
'a stunted thorn': 妹ドロシーの1798年3月19日の日記に次のように書かれていた:"Wm. and Basil and I walked to the hill-tops, a very cold bleak day. We were met on our return by a severe hailstorm. William wrote some lines describing a stunted thorn." (DOROTHY WORDSWORTH'S JOURNAL WRITTEN AT ALFOXDEN from 20th January to 22nd May) 続くひと月後の4月20日の日記に、"20th.—Walked in the evening up the hill dividing the Coombes. Came home the Crookham way, by the thorn, and the "little muddy pond." Nine o'clock at our return. William all the morning engaged in wearisome composition." 

"The Thorn"に付けた注:詳細はWordsworth: Poetical Works with Introductions and Notes, ed. by Thomas Hutchinson, rev. by Ernest de Selincourt (Oxford UP, 1950): "I will request permission to add a few words closely connected with 'The Thorn' and many other Poems in these volumes. There is a numerous class of readers who imagine that the same words cannot be repeated without tautology: this is a great error: virtual tautology is much oftener produced by using different words when the meaning is exactly the same. Words, a Poet’s words more particularly, ought to be weighed in the balance of feeling, and not measured by the space which they occupy upon paper. For the Reader cannot be too often reminded that Poetry is passion: it is the history or science of feelings; now every man must know that an attempt is rarely made to communicate impassioned feelings without something of an accompanying consciousness of the inadequateness of our own powers, or the deficiencies of language. During such efforts there will be a craving in the mind, and as long as it is unsatisfied the speaker will cling to the same words, or words of the same character. There are also various other reasons why repetition and apparent tautology are frequently beauties of the highest kind. Among the chief of these reasons is the interest which the mind attaches to words, not only as symbols of the passion, but as things, active and efficient, which are of themselves part of the passion. (701)