第115話 トマス伝説の変遷—第二部(キーツからミューアへ)  

 
 伝説の詩人トマス・レアモントの予言を題材とした第一部の三人の詩人に対して、第二部では伝承の断絶をテーマに二人の詩人を取り上げる。イングランドのロマン派詩人キーツ (John Keats, 1795-1821)とスコットランド・オークニー島出身の二十世紀詩人ミューア (Edwin Muir, 1887-1959)である。

 キーツは『つれなき麗(うるわ)しの妖精』 (“La Belle Dame sans Merci”, 1819)の前年、「ああ あの日々は過ぎ去ってしまった/あの時間は古く 色あせ/その一刻一刻が すべてを葬った」 と始まる『ロビン・フッド』(“Robin Hood”, 1818)という小品を書いている。古い伝承の世界への惜別の歌である。

すべては消え去り過去のもの
もしもロビンが緑の墓から
ふと起き上がることがあるならば
もしもマリアンが
この森に戻ってくることがあるならば
マリアンは泣き ロビンは怒り狂うだろう
ロビンはきっと罵るだろう 樫の木がみんな切り倒され
造船所に積み上げられて
塩辛い海の水で腐っていくのだから (37-45)

森の木々が切り倒され、「造船所」に象徴される近代化が進む時代を端的に表現している。

キーツにとっては、すでに、妖精の国の女王とトマスの出会いも過去のものであった。佳作“La Belle Dame sans Merci”なるタイトルの出典については、フランスの詩人シャルティエ(Alain Chartier, 1385/6?-1430/5?)の “La Bell Dame Sans Merci” (1424)であることは知られており、スペンサー (Edmund Spenser, 1552/3-99)の『妖精の女王』(The Faerie Queene, c. 1590)その他の古典作品、Endymion (1818)その他のキーツ自身の作品とのテーマと表現の類似性等々が数々指摘されてきており、ここに繰り返すことは避けたい。むしろ、直訳すれば「冷たい美女」となるはずのタイトルの訳をなぜ筆者が「妖精」としたかを顧みて、伝承バラッド衰退のアレゴリーとしての読み方を論じてみたい(スペンサーの『妖精の女王』が「徳」をめぐるアレゴリー作品であると同様に)。

 友人ウッドハウス (Richard Woodhouse, 1788-1834)の転写稿(キーツが弟ジョージ夫妻に宛てた1819年4月21日の手紙の草稿)では副題に ‘A Ballad’とあったことからもキーツがこの作品をバラッドの形式を意識して書いたことは明らかである。2行目が1行目と同じ弱強四歩格である点は2行連句のバラッド・スタンザの形式になっており、4行目の弱強三歩格が不規則である点を除けば、abcbと押韻する4行連句のバラッド・スタンザで構成されている。内容的に意識されたものが、”Thomas Rhymer”(第13話参照)の妖精の女王であったことも事実であろう。しかし、女王とトマスの出会いから妖精の国までの道行が淡々と描写されている伝承に対してキーツでは、伝承にはありえない一個人の苦悩・不安・死への恐怖などが描写されている。

何かに苦しむ哀れな姿で一人の男(草稿では「鎧の騎士」’knight-at-arms’)がさまよっている。事情を訊かれた男が話し始める。

草原にめぐり逢いしは ひとりのおかた
 いと麗( うるわ )しく さながら奇( く )しき妖精のごと
そのかたの御髪(みぐし)はなびき 御足(みあし)は軽く
 そのかたの御目( みめ )は怪(あや )しき

I met a lady in the meads
     Full beautiful, a faery’s child;  
Her hair was long, her foot was light,
     And her eyes were wild. (13-16)

John William Waterhouse La Belle Dame sans Merci 1893
J. W. Waterhouse, "La Belle Dame sans Merci" (1893)

伝承では、羊歯の丘を越えてやってきた女に「「ようこそ 尊(とうと)き天の女王様/あなたのようなかたをみるのは はじめてです」と言ったトマスに対して、「わたしはただ きれいな妖精の国の女王」だと修正されるが、キーツの男は「一人の女性」(a lady)に出会ったと表現される。妖精に出会ったと言っているのではなく、「まるで妖精のように美しくも怪しい目をした女性」だったというのである。(作品の捉え方を明確にするために出口泰生以下六つの翻訳比較表を文末に掲載している。)男はその女性を馬に乗せてゆく。まるで恋の道行である。女は身を預けて「さながら 奇しき妖精の歌」(‘A faery’s song’ 20)をうたう。「まるで妖精の歌のように不思議で神秘な歌」だったと解釈する。恋するごとく男を見つめた女は甘い呻き声を発して、「真実(まこと) そなたを愛しています」という。やがて男は「奇しき洞穴(ほらあな)」(’elfin grot’)に誘(いざな)われ、そこで二人は見つめ合い、口づけをし、やがて眠りに落ちる。眠りの中で男は夢をみる。死人のように顔青ざめた王や王子や兵士たちが「「つれなき麗(うるわ )しの妖精/そなたを捕えぬ!」(“La belle Dame sans merci/Hath thee in thrall!” 39-40)と叫んでいるのである。目覚めた男は冷たい丘の中腹にいた。最終スタンザの「しかしてわれはここにあり/ただひとり 顔蒼(あお)ざめて彷徨(さまよ)いつ/菅草は湖(いずみ)の辺(かた)に萎れ果て/歌うたう 鳥もなけれど」が出だしのスタンザに戻ってゆくという円環形式であると捉えれば、男は再び奇しき女に出会い、愛し合って眠りに落ちることになる。苦悶からの解放は永遠に到来しない。

 以上のように整理してみると、この作品のどこにも男が出会った女が「妖精の女王」であるとは書かれていない。額に苦悶の玉汗を滲ませ、水辺をさまよう男の姿は、バラッド詩が伝承バラッドから遠く離れていった姿を象徴するものである。伝記的には恋人ファニー・ブローンへの灼熱の想いであろうし、一般論としてはマリオ・プラーツの言う ‘Romantic Agony’の表出、即ち、「妖精」とも見紛う 「魔性の女」との出会いがうたわれていると読めよう。個々人の感傷性をことごとく排除して、最大限にシンプルな形で人間の行動を捉えることこそ民衆の共同の想像力 (‘communal imagination’)であったとミューアは述べているが、キーツの作品は、正に、トマス伝説の ‘negative allegory’となっているのである。伝承のトマスが案内された妖精の国へ至る道は第三の道であった。 それは、「正義の道」でも「悪の道」でもなく、宗教的束縛から解放された人々の想像力が生み出した‘positive’な世界へ至る道であった。しかし、個々人のものではないフォークロアという豊かな創造の土壌はもはや存在しないとキーツは感じていたのである。タイトルの ‘Dame’を出口らは文字通り「美女」と訳しながら、途中で、トマスが出会った女が妖精だったと単純に変更して放置している感を否めない(藪下は「妖女」と「妖精」を同義語として論じている)。筆者が敢えてタイトルに「妖精」という言葉を残したのは、この作品があくまでもトマス伝説の延長線上に生まれていることの証しとして「妖精」の存在は必要であって、しかし、その存在に翻弄されるトマスの「感情」のみがうたわれる事によって、存在の意味が著しく変質していることを強調したいがためであった。

 フォークロアが衰退し、理性と科学がますます進行する二十世紀に入って、先のスコットランド詩人ミューアが、母国の伝承ではなくキーツその後を想像した作品を書いた。タイトルもズバリ『魔法にかかった騎士』 (“The Enchanted Knight” , 1937)である。

        魔法にかかった騎士

つれなき麗(うるわ)しの妖精に眠らされた騎士が 

  暮れゆく丘の麓の落葉の森に横たわっている 
耕す農夫の鋤が近づき 迫りくる夕闇が

  騎士と平原を包んでゆけど 騎士は身動きしない

もう長きにわたって 錆(さび)が綺麗な花園模様を創り出し     5
  鎧兜に秋の野の花を咲かせている
洒落た胸当てから鉄の籠手(こて)にかけては蜘蛛の巣が張り 
  まるで幻の盾を構えているかと思わせる

無数の足音が騎士の耳元の芝地を踏み鳴らし
  切れ目無く続く大軍が夢の中を行進するとき         10
一人また一人と 昔の友が現れる
  一日中途切れることなく しかし 騎士は合図を送れない

静かな茂みの中で一羽の鳥が鳴く
  久方ぶりのその鳴き声が消えてゆく時 騎士は立ち上がって
後を追おうとするが 冷たくなった手足は動かず        
  芝地の上に身動きならず 騎士の影は横たわったまま

しかし 一片(ひとひら)の枯れ葉が舞って
  騎士の顔に止まって張り付くと
恐怖の冷たい生汗を額に滲ませ 
  胸押し潰す屈辱の重石(おもし)を払わんとするのであった    20   

                          (山中試訳)

 

騎士はもはや丘をさまよってはいない。妖精に眠らされたまま、落ち葉の森に横たわっている。もう長い年月が経って、自然界ならぬ鎧兜に蔓延った錆が花園模様をつくり出している。夢の中で行進してゆく大軍の中に昔の友を見つけるが合図を送れない。静かな茂みの中で鳥が鳴くが、後を追おうとしても冷たくなった手足は動かない。かつての自然界には戻れないのである。ひとひらの枯れ葉が舞って騎士の顔に張り付くと、恐怖の生汗を額に滲ませて、虚しくも屈辱の重石を払わんとするのであった。

 ミューアは講演、評論、書簡その他様々な場所で伝承バラッドとそこから乖離する近・現代詩について言及している。生と死を単純に一連のものとしてあるがままに受容して区別しない、死も生の連続性の中にあるがゆえに「恐怖」が存在しなかった伝承の世界からの変質をキーツの中に見たミューアは、あえて、一見してパロディとわかる作品を書いているのである。

 ここで最も重要な点は、キーツにあっては「おお 何がそなたを苦しめる・・・」という質問者がいて、それに応える形で、草原で一人の女性に出会った云々という説明が展開する。「質問者」、言い換えれば「聞き手」の存在という、伝承バラッドにおける対話形式をキーツは辛くも踏襲していた。(伝承においては、更にその歌を聞く ‘audience’が存在した。)しかしミューアが突きつけているのは、問いかける存在も無いし、当事者が発する言葉も無い。自己の内面に封鎖されて死んだ状態の騎士の姿である。ミューアは後年、ハーバード大学の「チャールズ・エリオット・ノートン記念講義」(1955-56)で、バラッド伝承の担い手としての聴衆が持っていた創造力について述べているが、彼がキーツに託して表現したのは密室化した現代詩のアレゴリカルな姿で、喪失した読者大衆 (‘audience’)との結びつきの回復を訴えていたのではないか。

(付記)驚くべきことに、トマス伝説は二十世紀末に、ファンタジー・ブームの中で再び蘇ることになる。エレン・カシュナーの小説『吟遊詩人トーマス』(Ellen Kushner, Thomas the Rhymer, 1990;1991 年度世界幻想文学大賞受賞)である。これについては、高本孝子「エレン・カシュナー『吟遊詩人トーマス』における語りのパラドックス」[Journal of National Fisheries University 59 : 1 (2010):9-18. http://www.fish-u.ac.jp/kenkyu/sangakukou/kenkyuhoukoku/59/01_2.pdf]参照。 今日のアニメやファンタジーの熱狂的な人気については、別個のテーマとして論じられることを期待したい。

翻訳比較表:

“La Belle Dame sans Merci”
(タイトル/39)
a faery’s child (14) A faery’s song (20) elfin grot (29)
山中 つれなき麗(うるわ)しの妖精 さながら奇( く )しき妖精のごと さながら 奇しき妖精の歌 奇しき洞穴(ほらあな)
出口 つれなき美女/つれなき たおやめ 妖精だった 妖精の歌 おとめごの洞穴
高島 無情の美女/無情な女 妖精の子 妖精の歌 小鬼の洞
藪下 つれない妖女 魔性の女 魔性のうた 洞穴 (ほら)
平井 つれなき美女/あのつれない美女 まさに妖精の娘といえた 妖精の歌 魔法の洞窟
宮崎 美しき非常の女/美(うるわ)しき非情の女(おんな) 仙女の子なり 神仙の歌のひとふし 仙窟
中村 非情の美女 妖精の子だ 妖精の唄 エルフの岩屋

山中光義『バラッド詩集』音羽書房, 1978.
出口泰生『キーツ詩集』, 1966.
高島 誠『新訳 キーツ詩集』, 1975.
藪下卓郎「ロマン派詩人にとってのバラッド — キーツの‘La Belle Dame sans Merci’ を中心に」1978.
平井正穂『イギリス名詩選』岩波文庫, 1990。
宮崎雄行『対訳 キーツ詩集』岩波文庫, 2005.
中村健二『キーツ詩集』岩波文庫, 2016.

ひとくちアカデミック情報
ファニー・ブローン:Frances "Fanny" Brawne Lindon (1800-65). 社交的で健康的な恋人が夜な夜なダンスパーティーに出かけるのに、肺結核という死の病を抱えたキーツは外出も叶わず、嫉妬と不安に苛まれ、彼女を悪魔と呪う。しかし夜が明ければ、彼女は再び天使であった。このような苦しみをキーツは書簡に赤裸々に残している。
マリオ・プラーツ:Mario Praz, 1896-1982. イタリアの美術史家、文学研究者。The Romantic Agony (1933)でプラーツは、18世紀後半から19世紀ヨーロッパ文学における’erotic and morbid themes’ (すなわち、‘Romantic agony’)を論じ、中で、妖しい魅力で男を苦しませる美しい女、「魔性の女」(’femme fatale’)の系譜を論じた。
ミューアミューアは伝承バラッドの匿名性、聴衆、物語性、技法、文体、音楽性など、バラッド詩の伝承からの逸脱を含めて、多方面にわたって論じている。その発言については次を参照:(1) 山中光義『バラッド鑑賞』(開文社, 1994) 180-81、(2) Mitsuyoshi Yamanaka, The Twilight of the British Literary Ballad in the Eighteenth Century (Kyushu U. P., 2001) 248-49,253-54,257-58,263, 273-74,278, 287, 294, 310.