第114話 トマス伝説の変遷—第一部(スコットからキプリングまで)  

 『うたびとトマス』("Thomas Rymer", Child 37)が『サー・パトリック・スペンス』("Sir Patrick Spens", Child 58)と共にイギリスの伝承バラッドを代表するものであることは、第一部の第13話で紹介した通りである。妖精の国に行って予言能力を得たと評判になった実在のスコットランド詩人アースルドゥーンのトマス・レアモント (Thomas Learmond of Erceldoune,1210?-97?)は13世紀に生きた詩人・予言者であったが、彼をテーマに後の詩人たちが繰り返しバラッド詩を書き残していることは、ある意味、不思議な感じを抱かせるほどである。第一のグループはスコット(Sir Walter Scott, 1771-1832) の“Thomas the Rhymer III (Modern)” (1802-03)デイヴィッドソン (John Davidson, 1857-1909)の“Thomas the Rhymer” (1891)キプリング (Rudyard Kipling, 1865-1936)の “The Last Rhyme of True Thomas” (1893)である。

 

 スコットは関連する三作品をMinstrelsyに収録している。 “Thomas the Rhymer, Part I”はChild 37C版として再録された、トマスが妖精の国に行くまでの(一応)純粋な伝承バラッドである。「一応」と留保した表現をしているのは、A版C版共にMrs Brown’s MSSであって、C版はある者によってA版に加筆を加えているとスコット自身が明記しているからである。それが何者であるかは分からないのだが、他の様々なケースから憶測するに、スコット自身であることは多分に考えられる。チャイルドがC版をスコットの版としているのはそういう理由であろう。それはともかく、A版との重要な違いは、出だしがA版では「正直ものトマスが野原で寝ころんでいると/粋(いき)な女がみえました/女は颯爽(さっそう)堂々と馬に乗り/羊歯(しだ)の丘を越えてやってきました」とあるところ、C版は次のようになっていた。

TRUE Thomas lay on Huntlie bank,
    A ferlie he spied wi’ his ee,
And there he saw a lady bright,
    Come riding down by the Eildon Tree.

Eildon Tree Stone

トマスが妖精の女王に出会ったというイールドンの丘 (‘Eildon Hills’)は国境地方メルローズのすぐ南に位置し、麓の出会った場所には’Eildon Tree Stone’と呼ばれる大きな石碑(右の写真;筆者撮影)が建っており、「ハントリーの土手」はその石碑の西約半マイルの地にある。すなわちC版では、場所をスコットランドのこの地に特定しているのである。バラッドと土地 (‘locality’)の特定を重視したスコットならではである。[ただし、これはスコットの独創なのではない。このバラッドは例外的に中世のロマンス(“Thomas off Ersseldoune" in the Lincoln Thornton Manuscript, written between 1430 and 1440)から生まれたものであり、バラッドの形でうたわれるようになったのは1,700年頃からと推測されるが、すでにそのロマンスで、トマスが女王に出会ったのは「ハントリーの土手」だと記されている。] 妖精の国に連れ去られたトマスは、そこで七年間を過ごすことになる。
 “Thomas the Rhymer, Part II”では、七年の時が過ぎて、トマスが再び夢から目覚めたかのようにハントリーの土手に横たわっているところから始まる。’Altered from Ancient Prophecies’という副題の通り、スコットランド王アレグザンダー三世(1241-86)の落馬事故死や、イングランドに敗北したフロドゥンの戦い(The Battle of Flodden, 1513)でのジェームズ四世 (1473-1513)の死と、やがて訪れるジェームズ六世 (スコットランド王として1567-1625;イングランド王として1603-25)の世を予言して終わる。スコットは頭注で、1615年にエディンバラで出版されたハート(Andro Hart, c. 1566-1621)によるトマスの予言集に基づいていると断っている。
 “Thomas the Rhymer, Part III”は ‘Modern by the Editor’と副題をつけて、これが完全にスコット自身の作品であることを明らかにしている。トマスが妖精の国で過ごした七年が過ぎて、争いが絶えないスコットランドに戻ったトマスは、妖精の国での歌争いで獲得した竪琴を手に、アーサー王の円卓の騎士の物語やトリスタンとイゾルデの悲恋をうたう。そこに雪のように白い二頭の牡鹿と牝鹿が現れる。それはトマスが最終的にこの世から姿を消す合図であった (“My sand is run; my thread is spun; 123)。自分が生まれ育った、古くからある屋敷にトマスが別れを告げる次の台詞:

“Farewell, my father’s ancient tower!
    A long farewell,” said he:
“The scene of pleasure, pomp, or power,
    Thou never more shalt be.  (137-40)

これは、ジェームズ六世がイングランド王ジェームズ一世として即位 (「同君連合」1603)したとは言え、実質的にイングランドの傘下に入ったスコットランドが、1707年に合同法が成立し、両王国がそれまでの同君連合からさらに統合を進めて、グレートブリテン王国として一体化した時代を生きるスコットにとっては、母国の運命とトマスの運命は重なるものであったという謂だろうか。「丘を探しても谷を探しても二度と再びトマスの姿は見えなかった」 (Some said to hill, and some to glen, / Their wondrous course had been; / But ne’er in haunts of living men / Again was Thomas seen.  157-60)と終わる。

 デイヴィッドソンでのトマスは、スコットにおけるような単なる予言能力を持ったうたびととして遇されるのではなく、王の婚礼(アレグザンダー三世の二度目の結婚の祝い)からの帰途に出会った伯爵から、予言能力を持たない単なる「魔法使い」だと罵られる。空を過(よ)ぎる雲はどこまでも柔らかく銀色に輝いていると、自然界が穏やかで美しいことを強調する伯爵に対して、かの王の婚礼の席に招かれざる客(=骸骨)が死者の国から現れ、人々が戦(おのの)いたことこそ自分の予言能力の証であると言い、杖を振るって、緑の草地を舐め尽くして北へ向かう芋虫の大群、洪水、地震、その他人知を超えた様々な自然界の異変、これらすべてが今日起こるある嵐 (‘a storm’)の予言であると言って姿を消す。そこに使者が現れ、スコットランド王が亡くなったと告げる。「海の向こうの世継ぎはまだ年端もゆかない/我らが前途は多難なり」と言う伯爵の台詞で詩は終わるが、これは史実である。次の引用の ‘stormstead’はスコットランド方言で、 ‘prevented by stress of weather from making or continuing a journey’ (OED)、悪天候で先に進めないことを意味するが、この言葉がいみじくもスコットランドの運命を伝えるのである。


The heir’s a baby over seas:
    In truth are we stormstead!’ (89-90)

王の娘マーガレットは、1281年にノルウェー王エリックのもとに嫁ぐが、二年後、生まれたばかりの娘を残して死ぬ。1286年アレグザンダー三世の死後、スコットランド女王として迎えられることになるのがこの孫娘マーガレット('Maid of Norway’)であったが、彼女はまだ三歳の幼子であった上に、正式に戴冠する前に、ノルウェーからスコットランドに向かう道中命を落とす(”Sir Patrick Spenc”でうたわれる海難がこのことを指しているかも知れないのである。第12話参照)。アレグザンダー三世はマルカム三世(Malcolm III Canmore, 在位:1058–93)以来続いたスコットランド王朝の最後の王であった。以後、スコットランドは国王の空位期間が続き、 “the Hammer of the Scots”とあだ名されるイングランド王エドワード一世 (Edward I, 在位:1272-1307)に象徴されるイングランドによる統治とスコットランド独立をめぐる戦いの暗黒の時代を迎えるのであった。デイヴィッドソンが生きた19世期後半は、スコットの時代と比べて遥かに理性に基づく自然科学が進み、「予言者」はいよいよ時代遅れの魔法使いと見做されたであろう。デイヴィッドソンの筆致には、悪魔呼ばわりされるトマスの予言は、予言ではなく、厳然とした歴史的事実であったのだという強い口調が窺われるのである。

 キプリングでは、この世の王が丘や野のいたるところにトマスを探す。遂に見つけた場所は、白い山査子が仙界の入り口 (‘the Gates of Faerie’) を護っているところであった。王はトマスを「礼帯の騎士」(‘a belted knight’)に叙するという。唄をやめて武具をつけよ、と。

「そちに駿馬をさずけよう
  紋章 拍車 小姓 それに従者をつけて
居城 領地 永久占有権 裁判権
  領地の広さはそちの望むまま」 (17-20) 

トマスは反論する。

「駿馬などもらって 何になる
  金ピカの剣(つるぎ)をもらって 何になる
仙界の優しい民の和をかき乱し
  その国のわが同胞( はらから )に 諍 ( いさか )いを起こすだけ   (33-36)

トマスはこの世の至る所に使者を送り、彼らから報告を受けるという。

「苦しみに呻く 陸(くが)の知らせを携え
   戦で沸き返る 海の知らせを携え
神 精霊 聖体( キリスト )の言葉と
  その三者の 間(はざま) に苦悩する人間の言葉を携えて」  (45-48)

ここで重要なのは、キプリング にあっては、王とはスコットランドの王と特定されるのではなく、 第一行目から‘The King’とだけ表現される、現世の唯一無二の支配者と名乗る者である。(国境地帯で戦ったという120行の表現から、一応スコットランド王であるということにはなるのだが、この詩においては国別が問題ではない。)それに対してトマスも自らを「小姓に従者 そんなものをもらってどうする/すでに一国の王たる身分のこの私が」(“And what should I do wi’ page and squire / That am a king in my own countrie?” 39-40)と言っているが、“a king”とは数ある者たちの中の一人を意味する。トマスと王はどこまでいっても折り合えない。子供たちはトマスの唄を立って聴くが、王は馬の上で聴く。王を馬(cf. 傲慢の馬 ‘horse o’ pride’ 17)から降ろし、裸の人間に向かってトマスは竪琴を奏でる。最初の曲で、王は「人知れずしでかした 恥知らずの愚行が/今 あまたの毒蛇となって」(95-96) 身を苛め、死の恐怖に襲われる。第二の曲で、王は馬の手綱を取り太刀を握って激しい国境(くにざかい)での合戦を指揮した姿を示す。最後の唄で王は失った昔の青春を思い出す。今や、「恋はいつでも 思いのまま」(130)、「恋人は 館の窓辺で わしを待ち/帰れば わしの手を洗ってくれた」(135-36)と豪語する王は、昔の恋人がエデンの園でアダムと楽園の森を走り回る姿を見せられる。トマスは最後に、王に向かって次のように述べて、この詩は終わる。

「私は 太陽から幻影を作り
  あなたの眼前に見せ 泣かせてみせた
足元の大地を修羅の巷に変え
  頭上の空を曇らせて見せた

「私はあなたを 神の高みにまであげ
  心( しん )の臓( ぞう )を三つに引き裂く目にも遭わせ
地獄の奥底までも突き落としてやった
  それでも まだ 取り立てる おつもりか 私を騎士などに」  (153-60)

 

 スコットやデイヴィッドソンにとってのトマス伝説は、母国の歴史そのものを伝える題材であった。他方、イギリス統治下のインドのボンベイで生まれ、1882年から89年までインドでジャーナリストとして活動したキプリングには、スコットやデイヴィッドソンにつきまとった母国の歴史を伝えるトマスの予言は関係なく、従って、妖精の国の女王の存在も関係なく、ただ現世の王というものの生き様を描き出したのである。


ひとくちアカデミック情報
Mrs Brown’s MSS:Anna Gordon (1747-1810). 「ファイフ州フォークランドのブラウン夫人」 (Mrs Brown of Falkland, Fife)の名で、イギリスにおける最も有名なバラッド収集家の一人である。1783年から1801年の間に書き留められた50篇のバラッド(これがMrs Brown’s MSSと呼ばれるもの)は、スコットの Minstrelsy of the Scottish Border (1802)や ジェイミーソン(Robert Jamieson)のPopular Ballads and Songs from Tradition (1806)に、その後チャイルドの ‘A’版として27篇が収録された。アンナは子供時分にバラッドを母親や叔母や子守女から学んだと言われているが、アバディーンのキングズカレッジの古典文学教授であり音楽協会のメンバーでもあった父親は、彼女がうたうバラッドのメロディも歌詞も自分がまったく知らないものばかりであったと、娘の才能に驚いていたという。