第22話 貧しさときらびやかさ
『ロード・トマスと色白のアネット』("Lord Thomas and Fair Annet", Child 73A)
ひと言の冗談が誤解を生み、悲劇を招くという話はバラッドに以外と多い。この作品もその代表的なものの一つである。トマスとアネットは愛し合う恋人であった。トマスが冗談に、「ぼくは家族の気持にそむいて/妻を娶(めと)ろうとは思わない」と言うと、アネットは「あなたがそんな気持なら/誰もあなたに嫁(とつ)がぬでしょう」と応じる。意地になったトマスは家に戻り、まず母親に「ああ 御意見を 御意見を お母さん/よい御意見をお聞かせください/栗色娘と結婚して/色白のアネットをあきらめましょうか」と訊ねる。母親は「栗色娘には財産と財宝がある/色白アネットには何もない/おまけにアネットの美しさも/すぐに褪(あ)せてしまうでしょう」と、アネットと別れることを進言する。次に兄の意見は、「栗色娘には牡牛(おうし)がある 弟よ/栗色娘には牝牛(めうし)がある」と、やはりアネットを諦めるように言い、一応「牡牛(おうし)は牛舎(こや)で死にますよ 兄さん/牝牛(めうし)は牛舎(こや)で死にますよ/ぼくの手もとに残るのは/炉端の肥った助平女」と応えるが、更に姉の意見を求める。姉は「色白のアネットを選びなさい トマス/栗色娘はやめなさい /あとになって ひどい女をもらったものと/悔(く)やむことのないように」と言う。それに対して、「いや ぼくはお母さんの意見に従います/そしてすぐに結婚します/ぼくは栗色娘を選びます/色白のアネットはよそへ行くがよい」というトマスの結論は、やはり意地の延長線だったのだろうか。
From S. C. Hall,ed., |
場面は急転する。「起きなさい 起きなさい アネット/絹の靴をはきなさい/聖メアリ教会へ/すてきな結婚式を見に行こう」と言う父親に起こされたアネットは、「侍女(おまえ)たち お化粧部屋へ行って/わたしの髪を結っておくれ/これまで飾りをつけたところは/十倍はでにやっておくれ」と命じる。トマスの母親の忠告が、財産の無いアネットとは結婚するな、ということであったわけだから、これは大きく矛盾する。現実的に考えると、アネットに絹の靴があるわけがなく、仕える侍女たちがいるわけがない。アネットが乗った馬の前足は銀の蹄、後足は金の蹄だった。そして、24人の騎士と24人の貴婦人がお伴をした。「まるでアネットは花嫁のよう」とは、貧しいからという理由で捨てられたアネットに対する民衆の応援歌であろう。
真珠の帯を巻き、太陽のように輝く姿で教会に入ってきたアネットの姿に、トマスは花嫁のことを忘れて、一輪のバラをアネットに渡す。栗色の花嫁がいまいましそうに、 「あなたをそんなに白くする/バラ水をどこで手に入れたの」と訊く。「バラ水」とは、バラから抽出した化粧水であるが、アネットは「わたしがバラ水を手に入れたのは/あなたの手には入らぬところ/わたしがバラ水を手に入れたのは/わたしのお母さんのお腹(なか)の中」と答える。貧しくとも美しいアネットに対する最大級の賛辞である。
今回の「歌の箱」には、漁師の妻ジェスィ・マリー(Jessie Murray)がうたった1951年の歌と、52年に採録した農夫ウィリー・エドワード(Willie Edward)がうたった歌の2種類を収録しているが、ウィリーの歌で、エレン(=アネット)の母親がトマスの結婚式を見に行くなと言うところまでうたって、ヘイミシュ・ヘンダスン教授が 「それで、結婚式はどうなったの」と質問すると、ウィリーが「えーっと、結婚式で・・・」と続きを思い起こして、「そう、栗色娘が色白のヘレン(=アネッ ト)を刺して、トマスが花嫁の首をはねて、それを壁に投げつけ」と解説して、最後に「三人とも死んで、それぞれ愛に誠実だったのさ」とうたい終わる。純粋に記憶に依存する口承歌の実態が生々しく伝わってくる貴重な録音であるが、ここに紹介するA版では最後に、教会の内と外に埋葬されたトマスとアネットが樺の木とバラに変身して結ばれ、「これでみなさんおわかりでしょう/二人はまことの恋人でした」とうたい終わる。
「栗色」とは野良仕事で日焼けして色黒であることを意味している。従って、「栗色娘には財産と財宝がある」というのも虚構であり、死ぬまで手の届かない夢の世界であろう。栗色娘も色白のアネットも二人とも貧しいという現実には変わりは無い。貧しい人々の現実と夢をアネットと栗色娘にそれぞれ二分して脚色し、想像力あふれる物語世界を生みだしているのである。
ひとくちアカデミック情報: ヘイミシュ・ヘンダスン教授: 「スコットランド研究所」における伝承歌収録の中心人物であることは第17話の「ひとくちアカデミック情報」で紹介済みであるが、ヘンダスン教授はまた、詩人であり社会主義者でもあった。若き日にはナチス・ドイツからの逃亡者を助ける組織に参画していたことがあり、イタリア共産党の理論的指導者アントニオ・グラムシ(Antonio Gramsci, 1891-1937)の獄中書簡を翻訳したりと、活動的で情熱的な人であった。
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