balladtalk

第99話 二つのプロット
「ビューイックとグレイアム」 ("Bewick and Graham", Child 211)

Child 211 berwick and graham bt
陣内敦作

 老人二人が町で出会って、杯を傾けるほどに酔いが回り、息子自慢になる。「ビューイックよ おまえに乾杯/家で待つわしらの息子たちにも乾杯だ/ふたりはこの国の宝物」と老グレイアムがグラスを挙げると、相手は「おまえの息子がわしの息子くらいりっぱなら/せめて 本を読む頭があったなら/剣と盾とを肌身離さず/自分の身を護るくらいの腕前だったら/どこにゆこうと/ふたりは勇ましい戦友で通ったものを/りっぱな兄弟と讃えられ/ボーダーで縦横無尽に戦ったものを/おまえの息子は青二才のドラ息子/わしの息子と兄弟の契りなどもってのほか」と喧嘩腰になる。言われた通り、息子が学校の勉強は出来ず、本も読まないと老グレイアムは認めた上で、せめて、どちらが強いか、決闘の勝敗を見届けたいと言って、家に帰る。
 老グレイアムにとって、三人の自慢の息子たちの中でも特に可愛く思うのは、「青二才のドラ息子」と罵倒されたクリスティ。確かに出来の悪い息子だが、「せめて 自分でちゃんと身が護れるか/ビューイックとの勝敗を見届けたいもの」と、父親から決闘を炊きつけられると、息子は「それだけはできません/身体(からだ)をはって/親友と戦うことなどできません」と固辞する。父親は「何を言う ろくでなし/・・・/売られた喧嘩をおまえに買う気がないのなら/・・・わしと闘え」と、強引である。愛する父親と闘うか、それとも親友と闘うかと悩んだ挙句、二度と戻らぬ覚悟で、友との決闘に向かう。
 場面変わって、今度は「賢いビューイック」の話に移る。彼は5人の弟子を抱えた剣の達人である。やって来た親友に、「愛(いと)しいグレイアム よく来てくれた/おまえこそぼくの親友/キリスト教国で一番の友」と歓迎すると、グレイアム(=クリスティ)は、決闘に来た事情を明かす。「親父(おやじ)同士を仲直りさせよう」とビューイックが言っても、グレイアムは「兄弟扱いはこれまでだ」と拒否する。ビューイックが「身体(からだ)をはって/親友と闘うことなどできはしない」とどんなに繰り返しても無駄であった。武具を纏わず向かってくるビューイックに、グレイアムも鎧や兜を脱ぎ捨てる。2時間あまりの闘いの後、グレイアムはビューイックの左の胸を打つ。くずおれたビューイックはグレイアムに「馬に乗れ 兄弟グレイアム/ぼくから急いで離れてくれ/この国から逃れるんだ/誰がやったかわからぬように」と言うが、グレイアムは剣を塚に立て、そこから三十三歩離れて、剣先めがけて身を投げたのである。グレイアムが先に死に、やって来たビューイックの父親が「息子よ 起きろ /おまえが闘いに勝ったのだ」と言うと、息子は「お父さん 家で酒でも飲んでください/ぼくと友をここにそっとしておいて」と言い、「深くて広い墓を掘り/そこにふたりを埋めてください/でも グレイアムを陽の当たるほうに/彼が闘いに勝ったのだから」と遺言する。
 「ふたりが眠るカーライルの町の/親友の物語はこれでおしまい」とうたわれ、最後は、お互いに最愛の息子を亡くして悲しみにくれる二人の老人の話に戻り、「物語はこれでおしまい」となりながら、「でも 二言三言(ふたことみこと)加えましょう/カーライルの町で流れた噂/悪いのはふたりの頑固じじい」と締め括られるのであった。

 母親の指図によって息子が父親を殺すという『エドワード』("Edward"、第16話参照)という作品があるが、父親と息子の関係がどうだったのかということは何も分からない。全宇宙を最初に統べた原初の神々の王ウーラノス(Ouranos)が息子クロノス(Kronos)によって追放され、その二番目の神々の王クロノスが息子ゼウス(Zeus)によって追放される。このように、父親の権力が息子に継承されるという構図はギリシア神話以来確立したものであり、また、知らずして父親を殺し、母親と結ばれるというオイディプス王の悲劇は、「エディプス・コンプレックス」という心理学用語となって今日まで生き続けていることは周知のところである。
 しかし、バラッドも含めて、息子自慢というような(現代風で軟弱な?)内容での父親と息子の関係をテーマとした作品は珍しい。しかも、兄弟の契りを結ぶほどの子供同士の固い友情という、もう一つ別のプロットが仕組まれているのだが、テンポの良い作品であるというチャイルドの頭注での評価にもかかわらず、両者はあまり整合性なく配置されている感が強いと言いたい。
 前話で、バラッドにおける演劇的要素としての「コミック・リリーフ」を話題にしたが、バラッドの劇的要素については他にも色々と指摘されるところがある。会話のみで展開するものとか、スピーディーな場面転換などもそうであるが、通常の話の手順を無視して、いわゆる唐突な始まり方 ('abrupt opening')をするバラッドの特徴をトマス・グレイが「バラッドは劇でいう第5幕から始まる」と表現したことは有名である。そこでグレイは、アリストテレスが『詩学』で述べる演劇における最上の法則が守られていると言う。アリストテレスによれば、劇の筋(もしくは行為)については、余計なサブ・プロットは持たずに一つに統一する方が望ましいというのである。その意味で今回の作品は、姿は見えないが製作者の個人臭の強い例外的なブロードサイド・バラッドであると言えるだろう。

ひとくちアカデミック情報:
トマス・グレイ: Thomas Gray, 1716-71. イングランドの詩人、古典学者。William Mason (1724 – 97)宛の書簡の中で次のように記述している: "I have got the old Scotch ballad,* on wch Douglas** was founded. . . . Aristotle's best rules are observed in it in a manner, that shews the Author never had heard of Aristotle. it [sic] begins in the fifth Act of the Play; you may read it two-thirds through without guessing, what it is about; & yet when you come to the end, it is impossible not to understand the whole story." ["Gray to Mason", letter 239 of Correspondence of Gray, ed. Paget Toynbee and Leonard Whibley with Corrections and Additions by H. W. Starr (Oxford, 1971) 2: 504-05.] *ここに言う'the old Scotch ballad'とは"Child Maurice" (Child 83)を、 **'Douglas'とは1756年12月にエディンバラで初演されたJohn Home (1722-1808)のromantic tragedyを指す。

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