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第29話 スコットランドのラストサムライ?
『ジョニー・アームストロング』("Johnie Armstrong", Child 169C)

2003 年のアメリカ・ニュージーランド・日本合作映画『ラストサムライ』を観る時、洋の東西を問わず、歴史の流れの中で滅びゆくものへの惜別の念を強く抱かざるをえない。時は明治維新、近代国家建設のために西洋化した政府軍の洋式鉄砲を前に、伝統的な刀剣のみで挑む反乱軍たちの戦に勝ち目は無かった。しかし、かれらの死に様が示した「武士道精神」は、勝利した政府軍の兵士たちの頭を垂れさせた。渡辺謙演じる「勝元」は、スコットランドの「ジョニー・アームストロング」であった。

スコットランド南西部ダンフリース=アンド=ギャロウェー(Dumfries and Galloway)州ギルノック(Gilnockie)の「領主」と呼ばれたジョニー・アームストロングは、国境地帯で最も強力で、国王からも恐れられた実在のクランの頭領であった。しかし彼は、1530年、ジェイムズ5世(1512-42;スコットランド王 1513-42)によって処刑される。この歌は、彼が逮捕される時の経緯をうたったものである。王からの親密な招待状を受け取ったジョニーは、是非とも返礼には王をギルノック城にお迎えして歓待したいと意気込んで出かけて行く。時の王よりも強力であったと言われたクランの頭領が、「王さま お目にかかれて光栄です/わたしにも仲間にも名誉の極み/わたしの名は ジョニー・アームストロング/王さま あなたの家来です」と丁重に拝謁する。ところが王は突然、「消えうせろ 裏切者ジョニーに用は無い/わしの前からとっととうせろ/裏切者は生かしておかぬ」と言う。ジョニーは、「王さま 王さま 命だけはお助けを/すてきなものを贈りましょう/二十四頭のミルク色の馬を/今年生まれたばかりの子馬を贈りましょう」と、あくまでも身を低くして命乞いをする。様々なものを贈ってご機嫌を取ろうとするが、効き目が無い。とうとう痺れを切らしたジョニーが、「「王であり 君主の身分でありながら/嘘をついたな 卑怯者/生涯でおれが愛するのはただひとつ/それは正直な心根だ」と啖呵を切る。それに続く「他に愛するものと言えば 肥えた馬に美しい女/鹿を狩るかわいい二頭の猟犬だけ」とは、 コミック・リリーフのご愛嬌である。

「王者の風格のこの男 足りないものは/王の剣と王冠だけ・・・/ジョニーよ どこで飾りを手に入れた/額に輝くその飾り」と訊ねる王、「戦場で手に入れたのだ/惨(むご)い王よ おまえが決してゆかない場所で」と答えるジョニー。ジョニーの巨万の富は、国境地帯および国境を越えてイングランドでの略奪によるものだという。しかし、彼の、イングランドとの抗争は祖国を護るものでもあった。17歳のスコットランド王にとっては積年の目障り、イングランド王ヘンリー8世(在位 1509-47)にとっても許し難い存在、ジョニーの存在は両国の平和的関係の邪魔であった。ギルノックの北カーリンリッヒ(Carlinrigg)滞在中のジェイムズ王に呼び出された時にジョニーが帯同した家来の数は50人前後、一方待ち伏せした王側の兵士は10,000人だったという。しかも、ジョニー側は、王に敬意を表して、全員武装を解いていた。

この歌をうたい継いだ民衆の心情は最後の二つのスタンザに率直に表現されている。

Child 169C johnnie armstrong
陣内敦作

「ジョニーは カーリンリッヒで/勇敢な仲間とともに殺されました/このときほど/スコットランド人が悲しんだことはありません」「イングランドから祖国を救った男たち/彼らほど勇敢なものはおりません/ジョニーがボーダーを守っているとき/襲う敵などいなかったのです」 (上の写真は、ジョニーと家来の者たちが一緒に埋葬された場所に建つ墓石)

メル・ギブソン(Mel Gibson)が主演・監督した『ブレイブハート』(Braveheart, 1995)も、イングランド王エドワードI世(在位 1272-1307)の支配下で苦しんだ13世紀スコットランドの独立のために戦ったウィリアム・ウォレスを映画化したものであるが、Child 157番「英雄ウォレス」(‘Gude Wallace’)はそのウォレスをうたったバラッドである。このように伝承バラッドには、史実、フィクション織り交ぜて、スコットランドの英雄たちの伝説像が様々に残されている。

ひとくちアカデミック情報ウィリアム・ウォレス:William Wallace, 1272? - 1305. 出自については明らかでない。スコットランド独立戦争の歴史上、彼の名が出てくる確かな年代は1297年で、イングランド式の統治を進めた治安判事ヘッセルリグのアサイズ('assize'「巡回裁判」)に反発したスコットランド人の一団が、判事の殺害を計画・実行し、この一団にウォレスが関わっていた。やがて、彼のもとに集まった民衆を指揮してゲリラ戦を行い、「スターリング・ブリッジの戦い」('Battle of Stirling Bridge')ほか、イングランド軍との数々の戦いで勝利し、ロバート・ブルース(のちのスコットランド王ロバートI世、在位 1309-29)は彼をナイトに叙して、「スコットランド王国の守護者及び王国軍指揮官」の称号を与えたが、平民出身の彼は貴族たちからは歓迎されなかった。1298年フォルカークの戦い('Battle of Falkirk')で敗れてからは、スコットランド側に講和の機運が高まり、さらに人気を失った。1305年にスコットランド貴族の裏切りによりグラスゴー付近で生け捕りにされ、ロンドンに移送されて、大逆罪に適用されたイングランドで最も重い死刑の一つである四つ裂きの刑("hanging, drawing, and quartering”)によって処刑された。