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第28話 母親の呪いで増水するクライド川
『 母の呪い 』("The Mother’s Malison, or, Clyde’s Water", Child 216C)

「ヤロー川」がスコットランドとイングランドの国境ボーダー地方を象徴する川であるとすると、クライド川はスコットランド南部高地から北西に流れ、クライド湾に注ぐ全長170kmにおよぶ川で、沿岸にはグラスゴーを始めダンバートンその他のスコットランドの中心的工業都市がある。

1274年と81年の二度にわたる蒙古襲来の際、「神風」とも言うべき大風が博多湾沖に元艦を沈没させて国を救った正に同じ時期、暴風雨が「神風」となってクライド川に吹き荒れて、スコットランドをノルウェーの侵略から救うという事件が起こった。世に言う「ラーグの戦い」である。

そして、「クライド川」は救国の川としてその名を歴史に残しただけでなく、「ヤロー川」に匹敵するほどの重要な舞台としてその名をバラッドの歴史に残している。そこでは、「神風」ならぬ呪詛が川の水を増水させて愛する者を飲み込むのである。恋人マギーに逢いに出かけようとする息子ウィリーに母親が、「おお  今夜はわたしといておくれ/今夜はわたしといておくれ/鶏小屋で一番のおんどりを/夕食に出してあげましょう」と、引き止めにかかる。息子が、どうしても 出かけて行くのだと言い張ると、母親は「おお わたしの願いをつれなく蹴(け)って/あの娘(こ)の家へ行くのなら/クライド川の川底で/わたしの呪いを受けるでしょう」と予言する。

高い丘を越え、暗い谷を降りてクライド川に近づくと、すでに怖じ気づくほどの川音がする。「おお 吠(ほ)えたけるクライド川 おまえは大声で吠(ほ)えている/おまえの流れはとてもきつい/殺(や)るなら帰りに殺(や)っておくれ/けれども往(ゆ)きは通しておくれ」と言ってウィリーは、やがてマギーの家に辿り着く。戸口でマギーの名を呼んで、逢いに来たと告げると、中から「家の外にも 家の中にも/ 恋人なんかいないはず/わたしの一番の恋人は/昨日おそくにここへ来ました」と言われる。「一番そまつな馬小屋でいいから貸しておくれ/ぼくの馬がやすむため/一番そまつな部屋でいいから貸しておくれ/ぼくがそこでやすむため/ぼくの長靴(くつ)はクライド川の水でびしょ濡れだ/顎(あご)がぶるぶる震えている」と、どんなに懇願しても、冷たく拒否される。出かける時の母の呪いを忘れていたと後悔しつつ、ウィリーはもと来た道を戻ってゆく。

Child 216C mother s malison
陣内敦作

クライド川の激流に鞭が流され、帽子が流され、最後は馬から落ちて自らが流される。

ウィリーが川底深く沈んだ頃、恋人マギーが深い眠りから目覚める。マギーは母親に、「夢の中でウィリーが戸口へきたんだけれど/誰も入れてやらなかったの」と言うと、母親は、ウィリーが少し前に来たことを伝える。事情を察知したマギーは大急ぎでウィリーの後を追う。クライド川に辿り着いて、渡ろうとする。一歩足を踏み入れると水は踵の深さ、またもう一歩踏み入れると、水は膝の深さ。「もっと先まで行きましょう/あの人に会えるのならば」と、またもう一歩踏み入れると、水は顎の深さになる。そしてマギーは、クライド川の川底で、いとしいウィリーに逢ったのである。

最後にマギーが「あなたのお母さんはひどい人/わたしのお母さんもひどい人」と言ったように、ウィリーの母親の呪いでクライド川が増水し、マギーの母親の声色遣いでウィリーは追い返されたのである。子供たちの恋の成就を邪魔立てする(父親ではなくて)母親の存在がバラッドの中で際立つ。それは何故だろうか。 そのような作品を数々紹介しながら、この大きな問いの解答を考えてみたい。

ひとくちアカデミック情報「ラーグの戦い」:'The Battle of Largs'. アレグザンダー2世(1198-1249)は1249年、スコットランド西方諸島を支配するノルウェー軍からの領土奪回の志半ばにオウバ ン(Oban)沖ケレラ(Kerrera)で倒れ、アレグザンダー3世(1241-86)が8才の若さで王位を継ぐ。13年後の1262年、今や雄々しき 21才の青年王となったアレグザンダー3世はスカイ島を奪回。ノルウェー王ホーコン(Haakon)は、翌63年、200隻の船と15,000の軍勢という史上最大の大軍を率いて、スコットランド西方支配の最後の試みに出る。8月の終わり、ケレラに結集、ロッホ・ローモンドまで侵入しながらも、アレグザンダー3世の防御の砦は固く、10月2日、恐らくスコットランドにとっては「神風」ともいうべき暴風雨にも恵まれて、ノルウェーの艦隊はクライド川に壊滅、 ホーコンはオークニー島まで後退し、そこで死ぬ。この10月2日の戦いが「ラーグの戦い」と呼ばれるものであるが、この勝利によってアレグザンダー3世は、65年にはマン島を含む全西方諸島を掌中に収め、翌66年、ホーコンの息子マグナス4世との間に「パース条約」 (‘Treaty of Perth’)が結ばれて、ノルウェーはオークニーとシェトランドを除く全支配地をスコットランドに譲ったのである。アレグザンダー3世の治世の安定と繁栄はここに定まり、81年マグナス4世の息子エリック2世はアレグザンダー3世の娘マーガレットと結婚、彼女は娘マーガレット('Maid of Norway')を出産とともに死亡し、その後エリックはロバート・ブルース(王位、1306-29)の妹イザベラと結婚、以後スコットランドとノル ウェーの友好が永く続くことになる。