第109話 死と医学
トマス・フッド 『メアリの亡霊』 (Thomas Hood, “Mary's Ghost” ,1827)

誰からも顧みられず独り寂しく生きた女が癌に罹かって亡くなり、その死体が解剖する医学生たちの嘲笑を受けるというオーデンの『ミス・ジー』(1937)の物語をすでに第102話で紹介している。解剖学そのものは医学の進歩に欠かせないものであり、紀元前1700年頃にはすでに人体解剖が行われていたと推測される記述も残されているそうである。しかし他方で、宗教的・道徳的見地から病理解剖を非人間的な行為と考える立場もあり、体系立てた近代解剖学の研究が始まったのはルネサンス期以降と言われている。

昨今の新型コロナウィルスをめぐる世界規模での悲惨な事態に対してテレビに登場した医者と文学者の発言が印象深い。一人は長年世界の感染症の現場で働いてきた方で、この事態は人間が科学を過信して自然の力を甘く見て来た報いだとおっしゃった。必要なことは「自然との共生」だと言われた。その後、ノーベル生理学・医学受賞のY氏も同様の発信をされていることを知った。人間の生と死、自然と科学をめぐって、バラッド独自の立場からの発言があることを、重複をお許しいただいて再度紹介しようというのが今回のテーマである。

伝承バラッド『マーガレットとウィリアム』("Fair Margaret and Sweet William", Child 74B)で、自分を捨てて別の女と結婚した恋人ウィリアムの初夜の床に現れたマーガレットが語りかける(第1話参照)。

「ウィリアム ベッドの心地(ここち)はいかがです
  シーツの心地(ここち)はいかがです
腕に抱かれてぐっすりおやすみになっている
  栗色の奥様はいかがです」

「マーガレット ベッドの心地(ここち)はけっこうです
  シーツの心地(ここち)もけっこうです
でも ベッドの足元に立っておいでの
  色白のお方のほうがもっとよい」 (sts. 8-9)

ウィリアムはマーガレットを亡霊として対応しているのではない。生きている恋人として、「お前の方がいい」と言っているのである。翌朝、マーガレットに逢いに屋敷にゆくと、彼女は棺の中であることを知り、ウィリアムも後追いして死ぬ。このパターンは多くの伝承バラッドで見られるものであるが、もう一つだけ例を挙げると、『魔性の恋人』("The Daemon Lover", Child 243F)(第2話参照)。長い間戻ってこない恋人を諦めて再婚して子供までいるところに男が戻ってくる。変わらぬ愛を誓い合って女がついてゆくと、男は実は悪魔になっていて、諸共に海の底に沈んでゆくという話であった。いずれの場合も民衆は「死」を否定しているのではない。死を受容した上で、「生」を演出しているのである。それこそが民衆の「フォークロア」の力であった。

詩人たちが口承バラッドの魅力に取り憑かれた一つは、間違いなくこの「フォークロア」のもたらす豊かな想像の世界であったと言って過言ではないだろう。しかし彼らのバラッド詩「創作」は、時代の影響か否かは問わないとして、その「フォークロア」が消えてゆく証しともなったことは第103話で紹介したティッケルの作品 (1725)がその良い例であった。伝承のマーガレットと同じ運命を辿って恋人コリンに捨てられたルーシーは、泣き伏す村の娘らに固まれて今際の言葉に次のように言う。

「さあ みんな 死体を運んで 運んでちょうだい 
  あの幸せな花婿さんに逢いにゆくの
あの人は 鮮やかな婚礼衣装を身にまとい
  あたしは 経帷子(きょうかたびら)に身をつつみ」 (41-44)

ルーシーは生きている人間として行くのではない。「死体」を運んでくれと、リアリスティックに頼んでいるのである。運び込まれた死体と対面したコリンは、再びルーシーを愛するどころではない。

困惑 恥辱(ちじょく) 後悔 絶望が
  いちどきに コリンの胸を張り裂いて 
死の玉汗(たまあせ)を額(ひたい)ににじませ 
  コリンはよろめき うめき 倒れた  (53-56)

極めて現実的な「恐怖心」である。加えて、「愛」という想像の世界ではなくて、「困惑、恥辱、後悔、絶望」という、より現実的・実際的な「感情」の世界である。しかし、その感情を表す言葉はいずれも抽象的な言葉であって、どのように困惑し、恥辱を感じ、後悔し、絶望したのかは、必ずしも客観的に伝わってこない。このような抽象的な言葉に慣れきっている我々は何も考えずに「そんなもの」として済ますかも知れないが、実は抽象的な言葉は実態に迫れないという隘路に読者を陥れているかも知れないのである。「フォークロア」の力が断たれることと抽象的な思考に慣れることとは事態の裏表なのである。

やがて人間の「死」は、「フォークロア」よりも自然科学的に受け止める方が遥かに無理なく理解できるようになってくる。ティッケルから100年後、1827年に発表されたフッド の『メアリの亡霊』 (Thomas Hood, “Mary's Ghost”)は、稀代の風刺・ユーモア作家として名を馳せた詩人の作品である。真夜中、ウィリアムのベッドの脇にメアリの亡霊が立つ。

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From Ephraim Chambers, ed. Cyclopaedia: or, A Universal Dictionary of Arts and Sciences, 1728.

ああ 愛するウィリアム ああ ウィリアム        
  もうわたしの永遠(とわ)の眠りは無くなったの
ああ わたしの永遠(とわ)の安らぎは
  粉々にされてしまったの (5-8)

と不思議なことを伝えようとする。理由は、「死体泥棒らがやって来て/わたしをひったくって行ったの」という。「死体泥棒」の原文 ‘body-snatcher’とはOEDの説明 (‘one who secretly disinters dead bodies in churchyard for the purpose of dissection’)にもある通り、死体を教会墓地から盗み出して解剖のために売り渡すことを生業としている者のことである。静かにお墓に埋められていると思いきや、盗み出されたメアリの腕はA博士の元に、脚はB病院に、手はC博士のところでアルコール漬けに、頭(おつむ)はどこに行ったかわからない、胴体は箱詰めされて運送会社の小型トラックでどこかに運ばれる、等々と細かに報告していると雄鶏が鳴いて、伝承バラッドのパターンよろしく亡霊は消えなくてはならない。

雄鶏(とり)が鳴いたわ もう行かなくちゃ
  愛するウィリアム お別れね
死んでも わたしはあなたのものよ
  アストリー准(じゅん)男爵様がわたしの心臓をお持ちですけど

わたしのお墓で泣くのはやめて            
  わたしがそこにいるとは思わないで
わたしの体の微塵も
  そこには残っていないのですから (41-48)

ウィリアムが死んでバラに変身してメアリと結ばれることも、コリンのように激しい後悔で悶絶死することもない。すべては科学のために捧げられるのである。

同じコロナ関連のテレビ番組の中で、ドイツ在住の芥川賞作家氏が、NHKの「いずれこのウィルスも医学の力で征服できるかも知れないが、こういう時に文学はどのような力があるか」というインタビューに、「科学は事実を解明するだろう、文学はその後人間がどう生きて行くかを考えさせるだろう」と答えていた。二つのテレビともに、或る意味で生々しい言葉が発せられて、是非とも記録に残しておきたいと、急遽今回の話題とした次第である。古今東西、人間という存在が懐(いだ)き続けていた「フォークロア」の意味を噛みしめたいと思うのである。 (2020.5.15記)


ひとくちアカデミック情報
フォークロア: この言葉の基本的説明は第2話の<ひとくちアカデミック情報>で済ませているが、ここではアイルランド生まれのイギリス桂冠詩人セシル・デイ=ルイス(Cecil Day-Lewis, 1904-72)の「民衆の記憶」をめぐる言葉を紹介して、バラッドのレーゾンデートル(=存在価値)を考えるヒントとしたい。
 「バラッドの作者と聴衆が、バラッドに浸透している迷信を或る時代にどこまで信じ込んでいたかはわからない。確かなことは、そのようなフォークロアが共同体の伝統の中にも、個人の精神の中にも、深く根ざしているものであった、ということである。・・・フォークロアはバラッドに内在するものであって、決して単なるバラッドの装飾品ではない。バラッド作者たちは、詩人に劣らず、ある部分、未知なる世界、異邦なる世界を探求することに関心があった。彼らのうたに深い感情的意味を与えているのは、彼らが接近した暗黒の井戸、われわれ自身はもはや煉瓦で塞いでしまってはいるが、なおもわれわれの内部に存在する暗黒の井戸、から汲み出されたものによるのである。 
  結ばれない恋人同士が絡み合う草木に変身するという、バラッドによくあるイメージにわれわれが深く感動するのは、そのイメージが、死後魂が木に変わるという古来の信仰から生まれているからではないか。・・・作者は民衆の記憶の最も深い源に頼ったのである。現にこのようにわれわれをその源泉に感応させるのは、われわれ自身の持っている、より深く埋没してはいるが決して消滅してはいない『民衆の記憶』なのではないか。」[原文は、The Lyric Impulse (Cambridge, MA, 1965) 67-68 より]



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