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第98話 コミック・リリーフ
「サイド村のジョニー」 (“Jock o the Side”, Child 187B)


 数ある「ボーダー・バラッド」(第66話の「ひとくちアカデミック情報」参照)の一つに過ぎない今回の作品をチャイルドの頭注で、「ボーダーの若者に憧れを抱かせるような、最もよくできた作品である」と言わしめたのは何故だろうかと思う。結論から先に述べると、優れた劇作品の構成要素としての「劇中で笑いを誘う息抜き場面」という意味で使われる「コミック・リリーフ」が的確に使われていて、無条件に楽しい作品になっているからではないか。チャイルドの作品評価が、後世いろいろと影響を与えてきたことに鑑みて、今回はこの問題をあえて取り上げる次第である。
 国境に接したスコットランド側、リズデイルのサイド村の若者たちがイングランド側の村を襲撃したが、失敗に終わる。息子ジョニーが捕まったことを知らせに、母親は弟のマンガートン館(やかた)に走る。「上着の裾を膝までまくって」懸命に駆けて行く老母の姿が、「スカートをひざの上までたくし上げ/金髪をおでこで/きりりとむすび」、森に出かけて行くお転婆娘ジャネット(第4話『タム・リン』参照)の姿に重なって、すでに何がしかの喜劇性を予告させる。マンガートンは直ちに息子のジョックとワットとホビー・ノーブルの3人の若者をジョニー救出に向かわせる。ホビー・ノーブルは、もともとイングランドの生まれ育ちで、そこでひどい悪事を働いてスコットランドに逃れてきた人物(チャイルド189番に彼を主人公にした『ホビー・ノーブル』という作品がある、れっきとした無法者)である。マンガートンは3人に、(泥棒稼業は棚に上げて)、「りっぱな家柄を悟られぬよう」に穀物売りの百姓の身なりをして行け、と命じる。ニューカースルに到着し、城壁の下で馬を降りて、作った梯子で壁をよじ登ろうとするが、梯子は三メートルも壁より低く、足場も短くて役に立たない。「他に手はない 門を破ろう」とするが、「手強(てごわ)い門番が両手を広げて通せんぼ」、しかし、「門番の首と胴をねじって真っ二つ」と、表現が快調になる。鍵を奪って城内の牢屋にたどり着くと、 囚人ジョニーに「ジョニー 眠っているかい 起きているかい」と、マーガレットを訪ねてきたウィリアムの亡霊のようなセリフを吐く(第61話参照)。助け出そうという仲間に向かってジョニーは、「百キロのスペイン鉄の足枷が/この身に付けられているのだから/鍵をがっちりかけられて/暗くて恐い牢屋に繋がれているのだから」無理だと言う。「恐れるな/弱気じゃ女も口説けない」と、場違いな説得力で、鎖のかかった大扉を内と外から木っ端微塵に壊して、あっという間にジョックが足枷もろとも囚人ジョニーを運び出す。ホビー・ノーブルが「俺も担ごう」と申し出ると、「大丈夫・・・/蠅より軽いくらいだぜ」とジョックは軽快な比喩で応える。ジョニーを高々と馬に乗せて、急いで城門から逃げ出すのだが、「ジョニー 両足揃えているなんて/おまえの乗馬は小粋なもんだ/衣装もりっぱで小綺麗だ/まるで花嫁さまのお通りだ」と、足枷をはめられたままの乗馬姿を花嫁姿に例えるこの箇所は「コミック・リリーフ」のハイライトかも知れない。

Child 187B jock of side
陣内敦作


 「小山のように」うねり、「海のような」タイン川を一歩一歩渡って向こう岸に着くか着かぬうちに、20人の追っ手が迫ってくる。「腰抜けのイングランドの者ども」の大将が川を見て、「これではとても渡れない/おまえたち 囚人は連れて行っても/頼むからスペイン鉄は置いてゆけ」と懇願する。どうやら、「スペイン鉄」が「コミック・リリーフ」の ‘key gadget’ (鍵となる巧みな小道具)となっているようである。「知ったことか/頂戴して 蹄鉄に使わせてもらおう/おれさまの葦毛の馬が/命がけでおまえさんから奪ったものだ」という捨て台詞を吐いて、一行はリズデイルへ全速力で戻ってゆく。暖炉の前で祝杯をあげ、「兄弟の盃を交わすうち/夜は更けてゆきました」と終わる。

    

ひとくちアカデミック情報:
チャイルドの作品評価:チャイルドは 「サー・パトリック・スペンス」("Sir Patrick Spens", Child 58; 第12話参照)のA版としてPercyのReliquesからのものを採用し、「これが詩的にもっとも優れている。断片的かもしれないが、欠落部分は想像力によって容易に補いうる」と述べた。44行のA版に対して、ScottのMinstrelsyからのH版を名指しして「物語は全部よりは半分の方が良いのだ」と断定している。断片的であることが詩的想像力を喚起するという考え方が、ある意味、バラッドの捉え方を歪めてきたことは否めない。アノニマス (‘anonymous’)な形で伝承されてきたバラッドの宿命として断片的であることは避けられないとして、伝承の中身が「物語」であるということからは、より詳しい物語も求められることは否定できない。[バラッド編纂者たちの作品選択の問題やコンサート歌手たちが物語のまとまりを求める傾向にあることについては、拙論「スコットのバラッド編纂をめぐって」『文芸と思想』48 (1984, 福岡女子大学)、および、「チャイルド・バラッドの全訳を終えて」 『全訳 チャイルド・バラッド』 第3巻 (2006)、音羽書房鶴見書店、参照。]
 膨大なバラッド作品の編纂の中で、それぞれの作品に付されたチャイルドの頭注は、ヨーロッパ全土にわたるバラッド伝播の詳細を伝えるものとしても類を見ない貴重な資料であり、作品に言及しようとする者が決して看過してはならないものである。そうした、客観的資料を提示するという研究者としての姿勢の中で、時折このような主観的な意見が垣間見える時、個人的には、チャイルドの人間性に触れる思いがしてある種の感慨を覚えるのである。

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