balladtalk

第49話 どっこい年増の娘さん 
「娘と修道士」 ("The Maid and the Palmer", 21A)

21A maid and palmer
陣内敦

娘が泉で洗濯をしているところに年老いた修道士が通りかかり、水を一杯所望すると、娘は「おまえのような老いぼれ坊主に/水を飲ませる器なんかありゃしない」と悪態をつく。相手がローマから戻ってきた恋人だったらすぐにも器を見つけてきて飲ませてやるはずだと修道士が言うと、娘は「恋人なんかいたことないさ」と応じる。(実はこのやり取り、目の前の、今は老いた修道士が昔の恋人であることに女が気付いていないというニュアンスあり。)すると修道士は、「おまえは九人の子供を産んでいる」と、娘のうそをばらすのである。しかも、三人は枕元に埋め、もう三人は酒樽の下に埋め、もう三人はむこうの緑の広場に埋めているという。所行をバラされた女が態度を急変させて、「悔い改めの苦行をお与えください」と修道士にお願いすると、苦行なんてそんなに甘いものではないとばかり、「おまえに与える罪滅ぼしの難行は/七年間は踏み石になり/もう七年間 鐘の舌になり/その先七年間 地獄で猿の手を引くことじゃ/これだけの罪滅ぼしを終えたとき/生娘に生まれ変わって 家に帰れる」と言うのであった。

若い娘を気取って元気いっぱい洗濯していた女は、実は九人の子を産んで隠した、罪深い年増女であった。スカンジナビア半島の類似のバラッドで、洗濯中の女のところにやってきたキリストが同じく水を所望すると、女は水を飲ませる器なんか無いと言う。キリストが、もしもあなたが純潔であれば、あなたの両手を器に飲ませてほしいと言う。純潔に決まっていると女が言い張ると、キリストが、それは嘘だ、あなたは三人の子を産んでいる、一人は父親との間に、もう一人はお兄さんとの間に、そしてもう一人は教区の牧師との間に、と暴露する。

このような実の子殺害、しかも大量殺害だったり、近親相姦で生まれた子供の殺害という異常な話のために、このバラッドは長くうたわれてこなかったという説明があったりするが、それは違うのではないか。「ブラウン・ロビンの告白」( "Brown Robyn's Confession", Child 57)で、 暗黒の海で進まなくなった船と仲間を救うために生け贄となって海に投げ込まれたロビンが、「いや これも止むをえぬ/・・・/母親とは 二人の子供を/妹とは 五人の子供をもうけたからには」と運命を甘受していたところに聖母マリアが現れて、天国に連れてゆくと言う。「天国に連れて行くのは/おまえの信心や立派な行いのためではなくて/海の上で告白した/正直な話のためなのですよ」ということであった。このように、数字の大きさは、バラッド独特の誇張表現のレトリックなのであって、「ブラウン・ロビンの告白」では、正直な告白に対する聖母マリアの寛容と慈悲を強調し、「娘と修道士」では女の不正直とそれに対する厳しい天罰を強調しているのである。加えて、後者の場合、科される難行苦行と共鳴して巧みなユーモアを生み出している。今日うたわれている歌詞のリフレインがいずれも味気ないものになっているのは、この歌の基調がユーモアであることの理解不足からではないか。マーティン・カーシー(Martin Carthy)ら'Brass Monkey'のグループによる歌詞付きの歌(YouTubeでご覧ください)を「歌の箱」に紹介しているが、各連4行目の「こんなに早くから朝日(ひ)が差して」('As the sun shone down so early')という平凡なリフレインと元歌のリフレインを比較すると、ユーモアの有無は一目瞭然であろう。

娘が泉に洗濯に(THE maid shee went to the well to washe,)
ラララ ラララ 陽気な気分(Lillumwham, lillumwham!)
娘が泉に洗濯に(The mayd shee went to the well to washe,)
それから それから どうしたの(Whatt then? what then?)
娘が泉に洗濯に(The maid shee went to the well to washe,)
白ユリの肌から落ちる玉の汗(Dew fell of her lilly white fleshe.)
どっこい年増(としま)の娘さん(Grandam boy, grandam boy, heye!)
しわくちゃお御足(みあし) よろよろお御足(みあし)(Leg a derry, leg a merry, mett, mer, whoope, whir!)
どっこい年増(としま)の娘さん 膝を見せてもアッカンベ(Driuance, larumben, grandam boy, heye!)      

朱の部分がリフレインとなってうたわれてゆくのだが(原詩、訳詩ともに第2連以下、省略)、「それから それから どうしたの」(‘Whatt then? what then?’)と訳した部分以外は、意味がほとんど解らないリフレインである。そのような意味不明なリフレインは古いバラッドに多く、翻訳者泣かせであるが(この話題、また別の箇所で)、この歌の基調がユーモアであると解した上での自慢の(?)意訳(迷訳?)である。


ひとくちアカデミック情報陣内敦: 筑波大学大学院芸術研究科絵画専攻修了。長崎短期大学専攻科教授。フロッタージュ、版画などを中心に創作活動を行う。直近の個展は、フロッタージュ作品を展示した陣内敦展(2013年1月、大阪ギャラリープチフォルム)。氏はイギリス伝承バラッドにも強い関心を持ち、伝承バラッドの挿絵としては史上初のチャイルド全作品(305+1篇)の挿絵を作成中。完成作品は随時日本バラッド協会のホームページに掲載。http://www.j-ballad.com/gallery5-jinnouchi.html