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 第12話 腕利き船乗りの運命
『サー・パトリック・スペンス』("Sir Patrick Spens", Child 58A)

sir patrick spens Hall NEW

From S. C. Hall, ed., The Book of British Ballads, 1842.

今回からは12回シリーズで、英国民に最もよく知られている、いわゆる「アンソロジー・ピース」と言われるポピュラーな作品を集中的に紹介してゆこう。まずは、人気ナンバーワンと思われる『サー・パトリック・スペンス』から。

スコットランド東部、今日の首都エディンバラから北西に16マイル、旧ファイフ州南西部の都市ダンファリン(=ダンファームリン、Dunfermline) は、他の小都市と何ら変わらない平凡な田舎町に見えるが、ひと際大きく、異彩を放つ建物が二つある。大聖堂と宮殿廃墟である。そこは、かつて歴代のスコッ トランド王の居城があった所である。

ある時、その町で、王様が血のように真っ赤なワインを飲みながら、「わしの船をあやつれる/腕ききの船乗りはどこにいる」とたずねると、「サー・パトリック・スペンスこそ/いちばん腕ききの船乗り」だと知らされる。王様はさっそく手紙を書いて、用件を伝える。王様からの手紙だということで最初は大喜びをしたサー・パトリックであったが、その任務が、危険な時期の船出だということで、甚(いた)く悲しむ。 (10月28日から2月2日の間、遭難の危険性の高い北欧への航海は法律で禁止されていた。)し かし、次の瞬間には、ひどい嵐を予告する不吉な月が出ているという部下の言葉にもかかわらず、潔く船出の準備を命じる。場面は急転直下、船が沈没する際に甲板を逃げ惑う宮廷人たちの姿がうたわれる。そしてまた、次の瞬間には、夫たちの帰りを待ちわびる妻たちの姿がうたわれる。最後は、海底で眠るサー・パト リック・スペンス一行の様子である。

ここに紹介しているテキスト(Child 58A版)は、最大限に説明を省略していて、いったいどういう事件をうたっているのかということが、誠に解りにくい。この歌が極めてポピュラーであることを納得していただくためには、実はスコットランドの歴史にまつわる補足説明が必要かも知れない。

右下の写真の"Malcolm Canmore's Tower"(マルカム・カンモアの塔)という銅板は、上に述べた宮殿廃墟の敷地の一角にある楼閣跡の積み上げられた大きな石に貼付けられている。銅板の説明文に、「ダンファームリンの塔について歴史上最初の言及がみられるのは、西暦1070年、マルカム・カンモアと彼の妃プリンセス・マーガレットがここで結婚式を挙げた時である。」とあり、説明文の最後は、「歴史家によると、この塔こそ、『王様がダンファリンの町で血のように赤いワインを飲みながら座っていました』とうたわれた場所である。」という文章で締めくくられている。言うまでもなく、バラッド『サー・パトリック・スペンス』の出だしの部分であ る。この歌がそれほどよく知られていることを確認させ、遠い中世の王の座していた場所に辿り着いたという感動を与えた銅板であった。

Sir Patrick Spens 1 NEW
(やまなか・みつよし撮影)

サー・ パトリッ ク・スペンスに非情な船出を命じた王は、しかし、マルカム・カンモア三世(在位: 1057 - 93)ではなかったようである。時代は下って13世紀中葉、アレグザンダー三世(Alexander III、在位:1249 - 86)の治世に、スコットランドは安定と繁栄の黄金時代を迎えた。王の娘マーガレットは、1281年にノルウェー王エリックのもとに嫁ぐ。彼女は2年後、 生まれたばかりの娘を残して死ぬ。1286年アレグザンダー三世の死後、スコットランド女王として迎えられたのがこの孫娘マーガレット('Maid of Norway'、在位:1286-1290)であった。この歌にうたわれているような海難についてだが、一つは1281年にエリックのもとに嫁ぐマーガ レットに随行した一行の者たちが帰路遭難した事件、今一つは1290年に世継ぎのマーガレットをノルウェーから連れ帰ろうとした途次にも同様の遭難があったという。

こ のバラッドには実に多くの異版があり、ここに紹介したA版では航海の目的も行く先も語られないが、多くの場合、上に述べたアレグザンダー三世をめぐる事柄としてうたわれている。今回の「歌の箱」でジーン・レッドパスは、王様がサー・パトリック・スペンスに送った手紙の中身を、「ノルウェーへ ノルウェーへ/海を越えて ノルウェーへ行き/ノルウェー王の娘を連れ帰ってほしい」("Tae Norowa', tae Norowa' / Tae Norowa' ower the faem / The King's dochter o' Norowa' / Tis ye maun bring her hame")とうたい、歌の後半で帰路の遭難をうたっている。

王が船出を命じた腕利きの船乗りサー・パトリック・スペンスなる人物は、歴史上どのような文献にもその実在を証明できないという。所詮彼は一介の船乗り、 「大宮人」ではないのである。彼の名が遠い昔の文献に見出せなくても当然かも知れない。しかし、彼は主人公である。断片性が強いA版であろうと、歴史的背景を偲ばせる他の版であろうと、彼がこの歌の主人公であることは変わらない。歴史的事実そのものは長い年月を経た伝承の内に風化し、人々の記憶から廃れていっても、逆に、彼を主人公とする民衆の心情は、時を経るごとに純化し、いわゆる「対照法」('parallelism')という見事に様式化された表現の内に結晶化していった。第4スタンザの、「ひとこと読んでサー・パトリックは/大声あげて大笑い/ふたこと読んだそのときに/涙が流れて眼がみえません」— 王からの手紙を受け取った喜び、次の瞬間、その内容が王の苛酷な絶対命令であることの悲しみ、手紙の一行目と二行目、「笑い」と「涙」の対照の内に、人生を包む喜びと悲しみの感情、人生の厳しい現実を余すところなく簡潔に表現しきっている。冬の北の海への船出が危険なものであることを熟知している腕利きの船乗りの嘆き(第5スタンザ)と、一転して威勢のよい船出の準備(第6スタンザ)も好対照である。バラッドの語りのテンポは、「嘆き」の感情を無視するのではない。最小限の語りの内に表現し尽くして、そこに淀まないのである。逡巡しないのである。次の瞬間、決断と行動に移る。第7スタンザで、部下の者が 「新月が旧月を腕に抱いている」というのも、このような自然界の姿を不吉なものとして捉える民衆の迷信を対照的に表現している。事件のクライマックスである第8スタンザで、対照法は最高の効果を生み出している。「スコットランドの大宮人がお嫌(きら)い なのは/コルクの靴がぬれること」 — これは、嵐で沈没する船の甲板の上を逃げ惑う、しかも、この期に及んでなおコルクの靴が気にかかる貴族たちに投げかけた民衆の痛烈なアイロニーである。 「けれどもそのお遊びがすむまえに/お帽子がぷかぷか波に浮かびます」 — 人間(とりわけ、民衆にとっては雲上人の大宮人)の愚かさと仮借なき自然の大きさがたった四行の内に、見事に対照的に浮かび上がってくる。帰らぬ者たちを待ちわびる奥方たちの姿も、海底に眠る者たちの姿と対照的である。扇をかざし、金の櫛を髪にさして待つ彼女らは、やはり虚栄(富や身分や華やかさ)に充ちた愚かな人間の姿である。しかし、それが空しければ空しいほど、事件の悲劇性は倍増する。サー・パトリック・スペンスは、スコットランドの大宮人を足元に従えて眠っている。悲劇の主人公はどこまでも彼なのである。

ひとくちアカデミック情報スコットランドの歴史:  スコットランドの歴史はイングランドとの抗争の歴史と言ってよいほどだが、メアリー(Mary, Queen of Scots、在位:1542-67)がその抗争の悲劇の女王としてスコットランド人に永遠に忘れられないのに対して、ブルース(Robert Bruce、在位:1306-29)は幾多の戦いに勝ち、1327年にはヨーク条約によってエドワード三世(Edward III、在位:1327-77)からスコットランドの独立を勝ち取った、彼らの永遠の英雄である。ダンファームリンにある大聖堂内の歴代スコットランド王たちの墓の中でも、説教壇の下に特別大きく設けられているのがブルースの墓である。1603年に王室が統合され、1707年に議会が統合されて、以後今日までスコットランドが連合王国の中に組み込まれていることは、第6話のアカデミック情報でも述べている通りである。

ブルースからさらに遡って、四つの王国に分かれていた古代スコットランドが一つの統一王国になったのはダンカン一世(Duncan I、在位:1034-40)の治世であった。ダンカン王がマクベス(Macbeth、在位:1040-57)によって殺害されたのは、シェイクスピアの悲劇を通してわれわれがよく知るところであり、そのマクベスを殺害して王位に就いたのが上記のマルカム三世であった。

 

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